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春を告げる




『伊勢物語』第九段の授業

この論について 

 昨年11月、千葉県高等学校教育研究会国語部会の秋の研究協議会で、「古典教育の改善の視点」という講演をさせていただいた。つたない講演ではあったが、わざわざテープ起こしをして下さり、その原稿を送って下さったので、その中から『伊勢物語』第九段の指導についてしゃべった部分を掲載したい。
 この段は「東下り」と呼ばれる有名な章段で、ほとんどの教科書に採録されている。比較的長めの章段であり、また、紀行文的な要素もあるため、様々な指導の工夫が可能である。そこで、指導のとっかかりになりそうな事項について、勝手なことをしゃべらせていただいた。

『伊勢物語』第九段の授業

●「東下り」
 第九段なんですけれど、『東下り』というタイトルがついているんですけれども、どうでしょうか、皆さんはどんな授業を『東下り』でなさっているでしょうか。
 新大系の本文は、第七・八段が一頁で見られますが、ご存じの通り、第九段というのは第七・八段と似ているんですね。だから、学習意欲の高い生徒達には、これを全部、第七・八段も見せてやると、第七段は「昔男ありけり。京にありわびて」、第八段は「京や住み憂かりけむ」。それが、第九段で「身をえうなきものに思ひなして」と、こう変わっていくわけだから、「身をえうなきものに思ひなして」という部分をイメージさせる意味では、第七・八段を一緒にとりあげてやると、非常によく分かると思うんです。同時に第七・八段のところにも違いが出てきますので、便覧などを使って昔の地名を確認させながら、導入を図っていくということも可能だと思います。
 で、「東下り」ですが、つまらないことをいうのを「下らない」と言いますよね。それから、東京に出て来た人のことを、ちょっとバカにしたニュアンスで「お上りさん」と言いますよね。だから、当時の人は「東下り」と言っただけで、主人公は立派な人だって分かるんですね。立派じゃない人は下れないんですから。だから「東下り」というタイトルを見た段階で、主人公はそれなりの人物であるということは予想できるわけです。第九段にこのタイトルをつけた人に、どのような意識があったのかは分かりませんが、まあ昔の常識としてはそういう感覚があって、自然に「東下り」というタイトルが浮かんだんでしょうね。そんなとこから入ると、生徒達は「あぁそうか、下らないってそういうことなんだ」なんてのが分かるわけです。

●全体を捉える
 私がこの第九段をやる時は、最初に「全体を捉えさせる」ということをやります。皆さんもおやりじゃないかと思うんですけど、結局これは旅の話なんですから、旅のスタートから終わりまで、どういう過程を通って旅が進んだのか、季節はどう変化したのか、その季節は何によって分かるのか。そして地名ですよね。一番目が京で、二番目が三河の国の八橋。そこにかきつばた。で、かきつばたが出てくるから便覧を開かせて、初夏。そして、その次に宇津の山峠があって、富士山があって。で、そこは五月のつごもりだから夏。「つた・かへでは茂り」、「茂り」だからもう夏の様子だ。そして最後の段落にいって、「ゆりかもめ」。便覧で調べさせれば、「冬」。おそらく初冬でしょう。というわけで、最初に全体をとらえさせることによって、旅の全行程をとらえさせる。そうすると生徒達はその後の読み取りがですね、割とこう位置づけ、今どこをやっているんだっていうことを、位置づけしながら、読んでいくことができるんじゃないかなというふうに思います。

●第一段落
 で、殆どの教科書が、第九段の「惑ひ行きけり」のところで段落を変えるんですね。五つの段落で編集している教科書が殆どですけれども、そうすると、この第一段落、「昔男ありけり。身をえうなきもの思ひなして京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとよりともとする人、ひとりふたりして、行きけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。」の、「けり」「けり」「けり」「けり」なんですね。するとまず、生徒達に、「どうしてこんなに『けりけりけりけり』なんだろうね。『行った行った行った行った行った行った行った行った』・・・ね、本当に行きたかったんだろうか」と聞くと、「うーん、多分行きたくなかったんだろうな。行きたくなかったんだけど、行かざるを得なかった。その言葉が、『けりけりけりけり』に出てるんじゃないか。」「じゃぁその行きたくなかった証拠はどこに出てる?」と聞けば、「身をえうなきものに思ひなして」というところをちゃんと見つけ出してくるわけです。こうして旅立ちのところは行きたくなかったんだけれども、身を要なきものに思いなして行ったんだ、そういうのが分かるわけです。そのところが第一段落のポイントですね。

●第二段落
 第二段落になれば、当然これはもう「折句」がポイントにならざるを得ない。だから「折句」のところをもう徹底的に教材研究をすることになるだろうと思うんですね。えーっと、この辺は難しいんですけど、「とも」はちなみにお供の「供」というのと、友だちの「友」という説がありますけど、会話の状況から考えれば、これはもう明らかにお供じゃなくて、友だちと考えざるを得ないんです。すると、「ともとする人、ひとりふたりして、行きけり。」と書いてあるけど、池田弥三郎(いけだやさぶろう)先生なんかは、友だち一人につき、馬の口をとる者が一人、荷物を運ぶ者が二人ぐらいいるから、友だち一人について、おつきの人が三人ぐらいいたんじゃないか。だから友とする人は一人、二人なんだけれども、この一団は十人ぐらいで旅してるんじゃないかというふうにおっしゃってますね。そのあたりはどうなのか分かりませんけれど、でもホテルやレストランもないことを考えれば、馬に自分だけ乗っているわけないですよね。だから煮炊きの道具などを持った従者が付き従ってたというふうに考えられますから、実際は十二、三人で旅をしてたのかも知れないということも分かるんですけど、まぁそんなことを話しながら「折句」のところにいきます。
 業平は「折句」を詠みなさいというふうに要求されるんですが、これは友だちが、やっぱり業平が和歌の実力者だってことを知っていたので、その実力を試したんだろうというふうに思うんですね。「お前、こんなつらい旅に俺達一緒に来てるんだから、ちょっとぐらいいい歌でも作ってみろ」という、そういう要求だったんじゃないかというふうに思います。というのも、「折句」で作られた歌というのは、この例が最初なんですね。「折句、折句」と我々は簡単に言ってるんですけれど、「折句」ということばが出てくるのが『千載集』が最初で、それ以前には「折句」ということばは、和歌集や他の作品の中には出てこないんです。これと、もう一首しか『古今集』の中には出てこないんですから、「折句」というのは、当時はそんなに広まっているテクニックではないんですね。そういうものを業平に要求することによって、業平の歌のテクニックを友達は試したんだと思うんですね。だから業平は「よし、そんなら」というので、和歌の修辞のテクニックを全部使ってみた。枕詞から始まり、全部使った。だからこんな絢爛豪華な歌ができたんじゃないか。そのことを授業では考えさせます。 そうすると、全部使おうと思うと、枕詞って最初に来ざるを得ないんですよね。しかも、「か」がつく枕詞って、この「唐衣」というのと「神風の」ぐらいしかないんですよ。そうすると、「神風の」で歌は作れないから「唐衣」と始めたんじゃないか。そうしたら、もう衣のイメージで、縁語は衣のイメージにならざるを得ないんじゃないか。そんなことを、今は結論だけ述べましたけれども、発問をしながら便覧を調べさせたりしてですね、生徒達に考えさせていく……というのが、この「折句」の学習のおもしろさなんじゃないかというふうに思います。
 同時にですね、この「かきつばた」を便覧で見せると、この花そのものに着物のイメージがあるんじゃないか。このかきつばたという花は、こう、大きな花びらが垂れてますよね。それが、その高貴な女性の袖、十二単みたいな袖のイメージがあるんじゃないか。しかも花の色は紫が普通なわけですから、紫も高貴な色だから、そのかきつばたの花というのは、二条の后というものとイメージとして重なってくる部分もあるんじゃないか、というふうに思われるんですね。そうすると、「三河の国、八橋」というのは、実在するかしないか、もしかしたら、実在しないかも知れない。「宇津の山峠に行きければ」と、そこは「宇津の山峠に」と書いてあるんだけれど、八橋のところは、「三河の国、八橋といふ所」と、「といふ所」と書いてあるから、実在しないかも知れないけれども、そういう場所を仮に作って、そこの河辺にかきつばたを咲かせたんだ、というふうに考えることもできるのかも知れない。そんなところまでですね、今の生徒達には迫っていくことができる感じがします。なお、「ほとびにけり」というのも、「ふやけた」となってるんですけれども、これは「涙に浸っていた」という訳ができるんじゃないか、というような、説も出ています。
 で、私が今、偉そうにお話をしましたけれども、これは<資料>の最後のところに挙げたものですが、小松英雄先生・・・もと筑波大学の先生で、皆さんも発売当時は買われたんじゃないかと思うんですけど、三省堂の『例解古語』というのがあったんですね。『全訳古語』じゃなくて、『例解古語』というのがあったんです。たいへん素晴らしい辞書で、私はずいぶんこの辞書から学ぶことがありました。助動詞項目などは、森野宗明先生が名前入りでご執筆していらっしゃいました。この辞書の主幹ををなされた先生です。その先生がですね、いろんな古典の解釈について触れていらっしゃるんですけれども、その最新刊が、二〇一〇年の八月に出た『伊勢物語の表現を掘り起こす 《東下り》の起承転結』という本です。今、私が話した話はこの本の中に出てまいりますので、興味のある方は読まれるといいと思いますし、私、小松英雄先生とは何の関係もないんですけれど、とにかく一冊でも読んでおもしろいと思った方はハマると思いますので、読んでごらんになることをお薦めします。一番最初の講談社学術文庫の『徒然草抜書』というのは、「つれづれなるままに」というあの序段がまだ充分に解釈されてないんじゃないかというところから始まる本です。で、私が一番おもしろいなと思うのは、笠間書院から出ている二つめ、『みそひと文字の抒情詩』という本で、『古今和歌集』の中に登場する代表的な和歌を取り上げて、その解釈が本当にそれでいいんだろうかということを検討された本です。ぜひお暇がありましたら、お読みになるとよろしいんじゃないかと思います。

●第三段落
 ちなみにですね、この先生、けっこうとんでもないことも言ってるんです。次の段落に参りますけれど、宇津の山峠なんですけど、宇津の山峠のところは歌が二つ、「駿河なる 宇津の山べの うつゝにも 夢にも人に あはぬなりけり」というのと、「時知らぬ 山は富士の嶺・・・」が出てくるんですね。小松先生は今紹介した本の中で、二つ目の歌、「時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらむ」、この「鹿の子まだらに雪の降るらむ」というのは、自分の足もとの情景だという解釈をされています。「足もと?何?」って感じですが、足下は泥道だ。泥道に水たまりができている。そこに雪を抱いた富士山が映っている、つまり、茶色の地面に白い水たまりだというわけです。確かに、「五月のつごもりに、雪いと白う降れり」だから、富士山の頭の辺は雪が真っ白になってたんじゃないか。雪が真っ白になってるのに「鹿の子まだら」というのは変だろう、というわけですよね。言われりゃそういう気もするんですけど。だから、その真っ白になった雪が、自分の足もとにいっぱい水たまりがあって、その水たまりに白く映っている。そうすると、水たまりだから地面が茶色、雪が映っているところが白で、それが鹿の子まだらなんだという、そう書いてあるんです。私が言うと全く説得力がないんですけれども、あの小松先生の本をお読みになれば多少は説得力があるかも知れませんが、やはり私は説得力がないんじゃないかというふうに思ってるんですけれど、まぁそんなのもあって、なかなか批判的に読んでもおもしろい本ですので、お読みになるといいんじゃないかと思います。
 この第三段落は、多分、「行き行きて駿河の国にいたりぬ」の「行き行きて」というところから、当然次の次の段落の「さらに行き行きて」というところと呼応する旅の状況を読み取らせる、気付かせるということが最初ですし、おもしろいのは当然「修行者」ということですよね。で、「修行者会ひたり」のところが、修行者「が」私達に会った、とまぁそういうことを教えるんですけど、やっぱり感覚的には不自然ですよね。どう考えたって、「修行者に会った」ととりたいですよね。だけどそういうふうに教えるわけにいきませんから、修行者が我々に会った、修行者が来合わせたと教えますけど、やっぱり教えながら自分でも「そうなのかな」と思いながらは教えています。で、その修行者に手紙を託すというところがおもしろいんですよね。「その人の御もとに」で「御」がついているから二条の后だろうと考えられるわけですけど、なんで修行者が二条の后に会えるの?というところがおもしろいわけです。だって、静岡県で友達に会ったんで、「じゃぁすいません、雅子妃殿下に手紙届けてよ」と頼めるわけないですよね。だけど修行者にいきなり頼むというのがおもしろいわけです。とすると、修行者というのはそういう后のいるような空間に入っていけるんでしょうね。仏教者というのは尊敬を受けているんでしょうか。あるいは男じゃないから安心だというのもあるんでしょうか。業平の友だちだから、もとは相当な身分なのかも知れない。よく分からないんですけれども、そういう二条の后に手紙を届けることができる存在として修行者という者がいる。そんな話もできますし、当然夢の話ですよね。ここでは、相手が自分のことを思ってくれないから相手の夢を見ない、そういう発想が根底にある。一方、小野小町の歌の中には、その反対の現代的な感覚の歌もたくさんあるわけですから、こういうところで小野小町の歌、「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」「覚めざらましを」なんて、文法知らなくたって、日本語に何となく雰囲気分かる人だったら、「夢と知っていたら目覚めないでいたものを」と分かるんですよね、きっと。で、そういうところで「君たち分かるじゃん、こんなの文法知らなくたって」と、そういうところが大切なんじゃないかなというふうに思いますけど、今のも余計な話でした。

●第四段落
 第四段落は、今の「白い雪」ですね。雪に注目するというのは、日本人にとっては、白馬という名前の山があることから分かるように、雪で農耕の成否を祈っていた、そういう伝統がここから読み取れるんだ、というようなことを生徒に考えさせるということも充分可能だろうと思います。「ここ」が京都だ、というようなことも、よく指導の対象になるんじゃないかと思います。

●第五段落
 最後、やっと着いた、「なほ行き行きて」と、辺境にやってくるわけですよね。で、さっき一番最初に、私はあの長編なので、物語の展開を場面ごとに整理したらどうかと話をしたんですけれど、一番最初は「橋」ですよね。その次は「峠」で、その次が「山」で、その次は「河」なんです。つまり「境」なんですね。この第九段というのは、「境界」で歌が詠まれるわけです。境界というのが、一つのこの「東下り」のキーワードになってくるわけです。で、この境界という事に一番気付くのは、この最後のところですよね。「河」、しかも日暮れである。で、ゆりかもめはさっき言ったけど、冬のものだけど、まぁ時間的に考えれば初冬のものだろう。そういう、境界として場面が設定されている。
 というと、すぐ気がつかなくちゃいけないのは『羅生門』です。『羅生門』こそ境界の物語そのものなんですね。「羅生門(羅城門)」という場所がまず都の中と外の境界である。主人公の男はにきびができている。子供から大人に移る境界の主人公だ。そして日暮れだ、一日の境界。そして、平安の末が時代設定になっている、時代の境界。そして「火桶が欲しい」、秋から冬の季節の境界。というわけで、「羅生門」という境界領域で、四五日前に暇を出され、四五日何も食ってない主人公が、盗人になろうかなるまいか、人間としての境界を迷う状況に追い込まれている、そういう『羅生門』、恐らく『羅生門』は一学期にやるでしょうから、もう一回『羅生門』の復習をさせる、なんていうことも可能になるんじゃないかというふうに思います。
 で、最後、都鳥を見れば、まず色があって、足と嘴があって、大きさがあって、で、行動の様子が出てくる。だから、「の」は同格だという説明をするんですが、その同格の説明は、その鳥を観察したら、「あっ、白い鳥だ!」「あ、でも嘴と足が赤いぞ」。そして、「大きい、これぐらいの大きさ」「何やってんの?」・・・、つまり、その鳥をしっかり見つめようとする、その視線の動きがずーっとそのまま描写されていて、その中に同格の「の」が位置づけられているんだということを理解させれば、「同格」という「の」の働きもですね、非常にクリヤに分かるんじゃないかというふうに思います。
 最後、「これなむ都鳥」と、これ私はずっと間違っててですね、さっき紹介した小松英雄先生の本に教えられたんです。「これなむ都鳥」を現代語に直すとどうなると思いますか。私、何気なく「これが都鳥」と訳してたんです。「これが都鳥だ」ぐらいですよね。そしたら小松英雄先生の本にですね、「『これが』の『が』はおかしい」と書いてあるんですね。「これが都鳥」という訳が出てくるとすれば、それが想定される質問は、「どれが都鳥ですか?」で、そういう質問に対しては「これが都鳥です」という答えは出る。しかし、「この鳥は何ですか?」という質問に対する答えは、「これは都鳥だ」、そういう訳をしなくちゃだめだ、そういう言語感覚が鈍った訳をしちゃいかんと、書いてあります。言われてみればなるほどと思いませんか?「これなむ都鳥」を「これが都鳥」と訳していませんでしたか? 私は二〇一〇年の八月までそう訳していたんですけれども、この本を読んでですね、以後、「これは都鳥でしょうが……」というふうに訳を変えようかなというふうに思っています。

●東路の果て
 以上、いろいろ長く話してきましたけれども時間になりました。最後に一点だけ。『更級日記』の冒頭は、「あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」と出てきますね。その「あづま路の道のはて」のところの註を見ると、『古今六帖』に出てくる歌、「東路の 道の果てなる 常陸帯の かごとばかりも あひ見てしがな」が出典じゃないかと書かれてるんですけど、この『更級日記』の作者は、『源氏物語』をもらった時に、一緒に袋に入った『在中将』ももらってるんですよね。そうすると、この「東路の果て」は、『東下り』のその「果て」だったんじゃないかというふうに読み取ることができるのではないか、というふうに、私じゃありません、小松先生の本に書いてありました。これも、とても参考になりました。

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