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海の模様




今年撮りたい写真

●写真

 写真(photograph)が日本に伝えられた時、それは「写真」と訳された。「写真」は、もともとはありのままに描いた肖像画などを指す言葉だったようである。日本国語大辞典によれば、「江戸時代末期にありのままの姿が機械によって写された画像が渡来し、英語の photograph の訳語として、「写真」がこれに転用された。」とある。

 ところが、この語が結構我々の意識をしばっていて、私たちの写真に対するあるイメージを形成するきっかけになったことは否めない。つまり、写真とは、「真を写すもの」というイメージである。このことを逆手にとって、「写真とは、真心を写すものである」などと自己の経験を展開して悦に入る写真家もいるようだが、それは写真に関わっているからのことであって、写真に対して特別な興味を持っていない人にとっては、写真とはやはり「真を写すもの」なのである。

●光画

 英語のphotographは、photo=光、graph=画である。だから、photograph をそのまま訳せば「光画」となる。ちなみに、この名を冠した写真雑誌が1932年に木村伊兵衛などによって創刊されており、そこには「写真」という語に対する何らかのメッセージ性があったのかも知れないが、今は立ち入らない。
 写真という語によって「真実を…」などととらわれてしまうのでもなく、一方で、「真心を…」などといったレベルでのこじつけをしているよりは、本来の「光画」という語をもとにして考えた方が、写真の本質に近づける。


 ずいぶん堅い書き出しになってしまったが、ここではこの「光画」という語をもとにして、自分の撮りたい写真について確認してみたい。

●光

 先ずは「光画」の「光」。これは、写真は「光」(色や形ではない…)を記録するものだということである。これが大切なのであって、光が感じられる写真が目標となる(光が感じられれば、それに伴って色彩も感じられ、形も浮かび上がるのだ)。
 この光のコントロールはひどく難しく、いわゆる写真のテクニックとは、(もちろん構図なども重要だが)このコントロールが大きな部分を占めているといっても過言ではないだろう。
 特に孫を撮るようになって、人の肌の美しさを知ってからは、逆にその美しさを伝えることの難しさ・奥深さを意識させられるようになった。デジタルでは、かなり後処理が可能となっていると思われるが、後処理を前提としない撮影テクニックにしても、ソフトによる後処理のテクニックにしても、プロとアマとの決定的な差はここにあるに違いない。
 別にプロ並みになろうとは思わないが、今年は今まで以上に「光」を意識した撮影を目指したい。

●画

 次に「画」である。これは、何を撮るか、つまり、自分が撮りたいもの=テーマということになるだろう。
 私が撮りたいものは、ずばり「美しいもの」である。「真実」がテーマの写真家、「記録」がテーマの写真家、「コミュニケーション」をテーマとする人、自分探しがテーマの人もいるだろう。しかし、私にとって写真とは、真実でも記録でもなく、「美しいもの」との出会いの場である。
 もちろん、何を「美しい」とするのかは難しい問題で、私が生きてきた過程で獲得した美意識がその根底にあるわけだが、私の美意識など何も特殊なものではなく、ごく単純かつ一般的なものである。目の前の美しいもの、花や、孫や、街並みや、周囲の四季を美しく表現してみたい、これが私の「画」である。(できれば、新垣結衣とか原田知世とか綾瀬はるかなども撮影してみたいが…笑)
 だから、今年も美しいものとの出会いの機会をたくさん設けるようにしたい。

*「美意識」ということでちょっと昔話を補足。昔、私が高校生だった頃、現代国語の教材で、「美しい言葉」とか何とかいう教材があった。その教材を使った授業で、先生から「あなたはここに出てくる表現を美しいと思いますか?」と質問され、「そう思いません」と答えたところ、先生から「それはあなたの美意識には合わないということね」とか何とか言われて、「へぇ~、自分の美意識なんだ」と思ったことをよく覚えている。どんな教材だったのか、自分が「(美しいとは)思わない」と答えたのがどんな表現に対してだったのかはまったく覚えていないのだが、その自分の答えを先生が「美意識」として位置づけてくれたことだけはよく思い出すし、それが美意識というものを意識するきっかけになったのである。
 というわけで、自分が国語の教員になってからは、生徒に発言を求めてイイ答えがかえってきた時には、それをさらに抽象化して位置づけてやるということを意識的に行っているのである。
 ちなみに、その教科書は筑摩書房のものだったが、確かその「美しい言葉」というのも、夫の睾丸にでき物ができたということを田舎の婦人が方言で率直に語るという内容が例の一つとして挙がっていて、正確かつ簡潔明瞭に表現することが美しいという結論だったような気がする。そんな教材が教科書検定で大丈夫であったのが(検定で苦しめられている編集者の一人としては)何となくほのぼのとする。さらにその教科書には「眼鏡の悲しみ」という女流作家のエッセイも載っていた。眼鏡をかけているせいで変なあだ名をつけられたとか、眼鏡のせいで美しく見られないといった内容だったように記憶するが(記憶違いの可能性が大いにあるなぁ…)、今ではこのような容姿に関する文章は絶対に教科書には載せられない。懐かしい時代の話である。

●2012年の抱負

 ということで、私の撮りたい写真は、「美しいものを光で捉えて伝えるもの」である。当たり前と言えば当たり前だが、この写真の実現を目指して今年も日々精進したいと思う。
 そのためには、先ず機材を…と、この話はやめておこう(笑)。今年も高画質を売り物とする新製品が山ほど出そうな気配である。機材に頼るのもそろそろほどほどに…と思わないでもないが、初心者にとって写真とは「腕よりも運と機材」という面が大きいのも、また真実ではあるのである(…と、年頭から言い訳めくところが悲しいかも)。

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