コスモスの野

キャリア教育としての国語教育に今求められているもの


 雑誌「進路指導」(財団法人日本進路指導協会)2012年秋季号に、上記タイトルの論考を載せました。
 もちろん、私がこの協会に加入しているわけでも、ましてや進路指導の話が書けるわけでもありません。しかし、同協会の幹部であろうごく親しい知りあいから頼まれて、どうしても断れずに引き受けることになりました。締め切りまで1週間、しかも原稿用紙10枚というのですから、そうとう雑誌側も切羽詰まっていたのでしょう。おかげで、このレベルの話で許していただけました。
 キャリア教育というよりは、国語教育の話になっていますので、ここに掲載してみることにしました。

1 はじめに

 現任の日比谷高校に勤めて9年、進学指導重点校であり、学習意欲の高い生徒を相手に過ごしてきた。同時に、大学で国語科教育法を担当して6年、20名を越える教え子が国語科の教員となり、そのうち3名は都の教員、つまり同僚である。これから述べることは、この期間の、ごく狭く限られた世界での経験に基づく話である。
 もちろん、日比谷は4校目であり、それまでに定時制も、全日制の指導困難校も経験してきたが、特に意識して「キャリア教育」に関わってきたという自覚はまったくなく、その場その場で要請される、つまり、その場その場で生徒たちが求めることに対して、自分なりに誠実に?対応しようと心がけてきただけである。それ故、この駄文も(原稿依頼者の意図は別にあろうと思われるが)、今、目の前にしている生徒・学生を念頭に置いて書くことしかできず、あらかじめご寛恕のほどをお願いしたい。

2 国語科教育法の「講義」

 今、「ご寛恕のほどを」などと述べながら、手前味噌を並べるようで恐縮だが、大学での私の講義はどういうわけか学生諸君にまずまず好評である。「発言したり議論したりする機会が多いから、他の「講義」と違ってやる気が出るし、充実している…」というのがその理由らしい。逆に言えば、他の講義(演習(ゼミ)は置くとして…)は、依然として「講義」になっているのかも知れない。
 よく大学の先生方が、「今の学生はノートも取れない」とか「今の学生は言葉も知らない」とかおっしゃる、そして、それが高校教育に対する一つの揶揄になっているようだが、私としては、ご自身の「講義」が、学生諸君のノートを取ろうとする意欲を喚起しているのか、彼らのボキャブラリーを触発するものとなっているのか、とお尋ねしたいところがないでもない。同時にこれは、「最近の生徒はノートも取れない」とか「最近の生徒は言葉を知らない」とか言ってはぼやいている、我々高校教員にも跳ね返ってくることでもある。
 私が担当している「国語科教育法」では、学習指導要領が言語としての教育の立場、つまりコミュニケーション能力の育成を重要課題としていることを受け、実地にその目指すところを伝える必要があると考え(学習指導要領が全て正しいなどとは思っていないが…)、私が「講義」をするのは三分の一(多くても半分)くらいにして、残りの時間は、学生諸君の質問に答えてテーマを具体化したり、質問にともなって展開する議論を活用して、その日のテーマを深めるように工夫している。その結果、4月当初に「意見のある人?」といってもなかなか手が挙がらなかった状況が、一ヶ月もすると、どんどん手が挙がって議論が深まるようになり、そうなると学生諸君もますます積極的に発言して、良い方向でのスパイラルが生まれている。
 もちろん、勤務している大学のレベルも前提にすれば、私が目の前にしているのは、やる気のある、しかも(国語科の教員を目指しているのであるから)語彙力やコミュニケーション能力も平均レベルを超えた学生諸君に違いない。だから、その分を割り引いて考える必要があるだろうが、とりあえず、学習指導要領が目指すところの授業の雰囲気を、この講座の中で、学生諸君に体験させることはできているのではないかと思う。

3 現場の実態

 一方、彼らは、自分たちが高校時代に受けてきた授業をかなり強固に内在化している。典型的なのが古典の授業に関する事例で、例えば「現代語訳をあらかじめ配布した上で授業を展開する」といった指導例を紹介すると、「訳を配ることには反対」「配ると授業でやることがなくなる」「授業のポイントを教えてしまうことになるのではないか」といった議論が噴出する。つまり、彼ら自身が「訳をつくる」授業を受けてきたわけであり、「訳をつくる」ことが古典の授業だと思い込んでいるのである。
 ちなみに、「そういう授業が楽しかったのか?」と質問すると、多くの諸君が「退屈だった」とか「古典は好きではなかった」と答える。つまり、国語科の教員を目指そうという自分たちが退屈だと思うことを、後輩の生徒たちにも取り組ませようというのである。「高校時代の国語は嫌いでした。でも、大学で文学を学び、教員を目指したいと思いました」という学生でさえ(というか「だからこそ」なのかも知れないが)、同じ轍を踏もうとするから不思議…というか、内在化された授業の呪縛から抜け出して、新しいスタイルの自分なりの授業を構想することは、難しいことなのであろう。(塾や予備校でのアルバイト経験が、よりこのような意識を強固にする方向に働くのかも知れない)。
 同じことは現代文の事例についてもいえる。現行の教科書には必ず用意されている「話し合い(ディベート)」や「レポートの書き方」「プレゼンテーション」といった表現単元の授業(読解の授業中にちょっと触れるというレベルのものではなく、それ自身を学習指導目標の一つとして位置づけた授業)を受けてきた学生はほとんどいない。彼らが受けてきたのは、評論や小説などの「詳細な読解」が中心の授業である(中には、評論の読解ばかりやっていたという学生もいる…)。そのような彼らに内在化されている現代文の授業は、評論や小説の詳細な読解の授業であって、決して「話し合い」や「レポート作成」「プレゼンテーション」の授業ではないのである。
 この、学習指導要領と現場のズレの根底にあるものについては、学生諸君にも容易に想像がつくようだ。大雑把にいえば、高校側の内部的な理由としては、
1 授業者に指導の経験がない(少ない)
  (準備の大変さ) 
2 授業の展開が読めない
  (授業そのものの大変さ) 
3 添削と評価が技術的にも時間的にも難しい
  (評価の大変さ)
 外部的な理由としては、
1 入試に向けて他にやるべきことがある ・入試に出題されない 
2 入学後・就職後の生徒たちの実態を知らない
  (知る余裕がない)
といったところであろう。これがある意味、おおかたの高校(国語教育)現場が置かれている現実でもある。
 先ほど、「最近の学生は…」という大学の先生方の揶揄の言葉を書いたが、高校の先生方は、「大学入試がね…」という言葉を口にすることも多い。しかし、本当に大学入試に「話すこと・聞くこと」の内容が採り入れられたり、「書くこと」がもっと中心的に採り上げられたりすれば、我々は困ったことになるに違いない。そうはならないと高をくくって、従来からの授業スタイルを変更することなく継続しているのであり、それを、教員となった教え子たちが再生産しているというわけである。

4 学習指導要領の理想

 学習指導要領はどうか。学生諸君にある計算を紹介する。例として採り上げるのは、ほとんどの高校生が必履修科目として学ぶ「国語総合」(4単位)である。
 高等学校学習指導要領に記述されている「国語総合」の「3 内容の取扱い」には、「内容のA」、つまり「話すこと・聞くこと」の指導について、「15~25単位時間程度を配当するものとし,計画的に指導すること」と記されており、「内容のB」、つまり「書くこと」の指導については、「30~40単位時間程度を配当するものとし,計画的に指導すること」と記されている。「内容のC」、つまり「読むこと」の指導については、「古典を教材とした授業時数と近代以降の文章を教材とした授業時数との割合は,おおむね同等」かつ「古文と漢文との割合は,一方に偏らないようにすること」と記されている。
 そこで、次のような試算をしてみる。4単位であるから、年間35週で計算すると総授業数は140時間。学習指導要領によれば、「内容のA=話すこと・聞くこと」に最低でも15時間、「内容のB=書くこと」に最低でも30時間配当するとなっている。とすれば、残りは95時間で、それを「古典を教材とした授業時間と近代以降の文章を教材とした授業時間の割合は、おおむね同等」、かつ、「古文と漢文との割合は、一方に偏らないようにする」という前提で分ければ、現代文の読解に45時間、古典の読解に50時間(古文25時間、漢文25時間)といったことに計算上なる。
 つまり、実際を無視した数字の上だけの話ではあるが、例えば古文の学習時間は、「書くこと」の学習時間よりも短いことになる。当然のことながら、もっと「話すこと・聞くこと」や「書くこと」に時間をかけなけれればいけないことが見えてくるだろうし、逆に、古典などは現代語訳をうまく活用することが必要とされることも分かってくるのである。自分たちが高校生だったときに受けた授業を相対化し、学習指導要領にも目を配りながら、新しい学習活動、特にコミュニケーション能力の育成=社会を生きる力の育成といった面を視野に入れた学習活動を組織することが、重要な課題となっているのである。

5 改善の方向

 大学全入時代とはいえ、入試がある以上、学習指導要領に述べられている学習活動を、限られた授業時間の中で実施するのは難しいという現実がある。その中で改善を目指すとすれば、先ずは講義中心の授業ではなくて、生徒の発言・議論を中心とした授業の展開を意識することがスタート地点となるだろう。つまり、現代文であろうが古典であろうが、発問・応答を骨格とする、生徒とのコミュニケーションを中心に据えた授業を組み立てる必要があり、そのためには、しっかりとした教材研究と、その教材を生かす指導過程の研究をすることが要求されるのである。
 そして、そのような授業の中で、聞く力・話す力(私は「話すこと・聞くこと」ではなく、「聞くこと・話すこと」の順だろうと考える)といったコミュニケーション能力の基礎を少しずつ養い、発言すること、議論することの面白さ、つまり、教室でみんなで学習することの楽しさを体験させながら、継続的な語彙指導(漢字の書き取りなど)とからめて、「伝える力」を涵養することが求められているのである。
 同時に、すべての指導の根底には、学ぶ側の「意欲(関心・態度)」を喚起することが必要とされることも忘れてはならない。意欲があれば、積極的に意見を発表したり議論したりするだろうし、ノートを取ったり要約をまとめたりするはずなのである。いかに意欲を喚起するか、意欲を喚起できる教材を用意できるか、古い教材であっても意欲を喚起する新たな切り口を見つけられるか、意欲を喚起する授業の展開とはどのようなものか、を、目の前の生徒の実態を踏まえて工夫することが重要なポイントであり、そこに、どのような学校、どのような教科であれ、教員の力量が求められているといえるのではなかろうか。

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2013-03-16

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