古典教育の改善とは
今月号(2010年10月、No.462)の『月刊 国語教育研究』には、第35回西日本集会香川大会が特集されており、その中学校・高等学校「古典・言語文化」の分科会報告として、「古典の優れた表現やリズムを読み味わう国語学習」(香川県高松市立龍雲中学校・冨家淳夫)、「書くことを取り入れた古典の授業の試み」(香川県立三本松高等学校・山本伸子)の二本が掲載されていて参考になる。一方、短いレポートであるが故に、不安を感じる部分もあるので、それについて簡単にメモしておきたい。
高等学校での実践を報告した「書くことを~」のレポートでは、
①『伊勢物語』第九段「東下り」を題材にして、「折り句」を作る
②『蜻蛉日記』の「嘆きつつ」の場面を題材として、作者へ手紙を書く
という実践がレポートされている。訳読で終わりがちな古典学習を、「書くこと」の学習と結びつけることで、生徒の興味・関心を高めようというものである。発想そのものに新しさはないが、①では、題材として「折り句」をとりあげたこと、②では、手紙を書く際に「1作者の今の気持ちは?」「2慰めてあげよう」「3これからどうしたらよいかアドバイスしてあげよう」というパターンのワークシートを活用させることで、当時の結婚形態や作者の境遇に関する理解と結びつけようとした点に工夫が見られる。
訳読だけの古典指導の改善が模索されて久しくなる。その間、多くの実践が提案され、それなりに成果を挙げてきた。このレポートもその一環である。しかし、短いレポートであるが故に、例えば①の実践にしても、②の実践にしても、教材の読解の扱いについては、
第一時~第四時 口語訳、文法的説明、心情理解など
となっているだけで、具体的にはどのような読解がなされたのか、情報が示されていない。この報告では、①「折り句」作成、②手紙作成が中心になっているため、紙面の関係もあって、第一時~第四時を端折らなければならなかったことは分かるのだが、第一時~第四時で、どのような指導がなされたのかということがはっきりしなければ、結局は「書くこと」の指導の成果も充分には検証できないのである。
なぜ「折り句」作成なのか。第九段の中で「折り句」が作られた状況がしっかりと読解できていなければ、この活動は、ただ「折り句」を作ったというだけの単なる言葉遊びに終わってしまい、学習効果のうすいものになってしまうのではないだろうか。高知大学の渡辺春美氏は、「和歌を日常的に詠んだ人々の気持ちに迫る実践」と評価しているが、(揚げ足をとるわけではないが)「折り句」を詠むことは当時でもほとんど行われていないし、難しい技巧にこだわった作歌をさせることは、かえって「気持ちに迫る」ことを妨げるのではないかと思う。「書くこと」の活動が、本当に第九段の理解に、つまり、第九段の鑑賞や『伊勢物語』を学習することの意義に、(さらにいえば古典を学ぶことの意義に)結びつけられたのかどうか、この実践報告からは読み取れないのである。
また、手紙作成については、「今のような冷たい態度で接するのではなく、もっと広い心で夫を受け止めよう」「夫ばかりにとらわれず他の和歌や音楽などにも興味を持ってみよう」「今は一夫多妻制だから仕方がないと思って気にせず優しく迎えてあげよう」「どうしても我慢できないならあきらめて次の恋に進もう」というアドバイスが、生徒の書いた手紙の中に見られたと報告されており、それを実践者は、「当時の結婚の形態や作者の境遇を踏まえて書くレベルまで到達している」、「いわゆる批評的な視点で読」む、と評価しているが、本当にそのように評価できるものなのだろうか。この手紙作文が、『蜻蛉日記』の(いや、「嘆きつつ」の部分だけに限定したとしても)学習内容として、ふさわしいものなのかどうか、私には疑問に思われるのである。
生徒の興味・関心を高める工夫は必要であるが、まず目の前にある本文そのものの「おもしろさ」を伝える工夫がなければ、引き続く様々な活動も、その目標を達成することはできないだろう。紙面の関係があることは理解するが、本文の読解過程が示されないかぎり、それに付随する活動の評価も難しいものになってしまうのである。
すべての活動の根本には、先ずその作品の本質を伝える読解が必要である、というのが私の考えである。それは何も「文法のこだわって詳細な読解をする」というのではない。現代語訳を活用することも、イラストやマンガを活用することでもよい。しかし、その作品・場面のおもしろさを支える「肝」を指導者がりっかりと理解し、それを的確に読み取らせる指導過程を工夫をしないかぎり、古典に親しむ態度を養うことはできないだろう。つまり、読解指導の部分にこそ、我々が工夫すべき古典指導改善のポイントがあるのではないかと私は考えるのである。だから、その点が明確に示されないレポートは、やはり物足りなさが残ってしまうのである。
今、小松英雄『伊勢物語の表現を掘り起こす』(笠間書院、2010)を読んでいるのだが、その中に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〈古今・秋上・169〉」の歌を題材にして、次のような指摘がある。
第一句の「来ヌ」は〈来タ〉、第五句の「おどろかれヌル」は〈自然と感じられタことだよ〉と訳されていますが、そんなつまらない詩が、はたして『古今和歌集』では名作なのでしょうか。「秋来ぬ」とは、秋がすでに来ていて、これからも続くことを表わしており、また、「風の音にぞおどろかれぬる」とは、風の音を耳にして、秋はすでに来ているのだと気がついてハッとした、その感動がまだ持続していることを表わしています。暑いだけの夏を堪え忍びながら待ちに待っていた涼しい秋の到来を確認した喜びの表明です。
「自然と感じられたことだよ」という不思議な訳文は、「おどろか・れ・ぬる」と品詞分解なる手続きをして、①レは助動詞ルの未然形で、この場合は〈自発〉だから「自然と~られる」でよい、②ヌルは完了の助動詞ヌの連体形だからタを当てればよいという訳の姿勢が、ぶざまな訳文を産んでしまったのです。多くの場合、テシマッタがマイナスの含みで使われていることを認識していれば、助動詞ヌの訳語として無条件で使えるはすはありません。右に提示した筆者自身の解説には、辞書に羅列してある訳語をひとつも使っていません。古典文法が、そして、この場合には《完了》という用語が、思考停止に陥らせています。古典文法を覚えないと入学試験に落第してしまうのが現実だとしたら、教える側にも習う側にも打つ手はありません。古文が嫌われる理由がよくわかります。
「古文が嫌われる理由がよくわかります」という指摘には素直に反省すべきであるが、小松氏が主張しているのは、形骸化した文法指導の弊害なのであって、「ぬ」の正しい理解がこの歌の正確な鑑賞に結びついていることは言うまでもない。
古典指導の改善の場で、先ず我々が取り組むべきは、指摘されているような文法指導の克服である。古典の本当のおもしろさに触れ、古典に親しむ態度を養うためには、文法がなければならないことも自明だからである。古典に関するかぎり、まずは教材をどのように料理するのか、その正しく分かりやすい手順の提示が、必須と言えるのではないだろうか。
*ちなみに、小松英雄氏の著作はどれも面白く勉強になるが、一方で首をかしげたくなる指摘も多い。例えば、氏は同書の前書き「読者のみなさんへのよびかけ」で、『更級日記』の冒頭を取りあげながら、そこに登場する「等身に薬師仏を造りて」を話題にしている。氏によれば
そこに薬師仏がおわしますつもりになって
の意であり、薬師仏は夢見がちな作者の想像の中にいるという解釈を示されているが、ちょっと首肯しがたい内容であろう。むしろ、夢見がちな少女は、木をつかって自分で造ってしまった(彫る必要はない、目鼻を書いたりしたのではないか)のであり、粗末なものであったからこそ、旅立ちの際には(親に命じられて)残して行かざるをえなかったと考える方がよいのではないか。晩年、仏道に深く帰依する作者の回想としては、そういう夢見がちな少女時代の行動を振り返ったとしても、面白いように思うがいかがだろう。