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私の考える優れた古典教科書とは


昨年度版の日記の3月28日のところに、高等学校の教科書検定について報ずる記事を念頭にして次のように記した。これは、使いやすくて生徒の考える力を伸ばす教科書、特に古典の教科書に関して私が考えていることを、日記故に簡単に述べたものである。

『枕草子』の例 (D社の教科書と比較して)

 今日の朝刊各紙には、高等学校の教科書検定の話題が採り上げられていた。キーワードは「脱ゆとり」「震災と原発」「芸能界」といったところか。朝日新聞では、例えば東京書籍の国語教科書を採り上げて、「万葉集や与謝野晶子の短歌、森山直太朗さんら作詞の現代ポップスを並べて「桜の歌」を読み比べさせる」といった「芸能界」的話題を紹介している(ちなみに教育出版国語は「古典や文学への抵抗感を減らそうと、平安京の模型など国語の巻末の付録を充実させた」と紹介されていて、ちょっとトホホな気分…)。
 確かにこれは面白い工夫だと思うし、実際の紙面も見てみたいが、教科書の本質はそんなところにはない。古典の教科書でいえば、読みやすい本文と学習者に配慮した脚注が大切なのである。ぜひ(巻末付録ではなく…笑)教育出版の本文と脚注を見てほしい。係り受けをしっかりと認定した上で読点の位置を見直してあるし、脚注も単に語句の意味を説明するだけでなく、その教材の読解に結びつくように工夫してある。例えば、(ちょうど今、新学期に向けて下準備している)『枕草子』第百二段「二月つごもり頃に」の「内侍」の注を採り上げてみよう。この話は、藤原公任から歌を読みかけられた清少納言が、漢詩の知識を活用した機転でうまく返歌して切り返す話だが、話の終わりに褒め言葉として「(清少納言を)内侍に推薦するよう奏上しよう」という部分があり、その「内侍」に注がつくわけである。D社は、
掌侍(ないしのじょう)の略称。内侍司(ないしのつかさ)で、内侍(ないしのかみ)、典侍(ないしのすけ)に次ぐ女性の官。
と、単に語句レベルの説明で終わっているが、教育出版は、
内侍司(後宮の役所の一つ)の三等官である掌侍のこと。当時、女房としては最も高い地位であり、天皇に近侍し取り次ぎの役目を果たすため、漢学の知識が必要とされた。
と、清少納言が内侍に推薦されたこと(つまり、清少納言が高く評価されたこと)の背景がちゃんと分かる脚注になっているのである。
 表面的な目新しさ・面白さは一時のものである。教科書の本質を見極めた選択がなされること…そのためには教科書を選ぶ教員にも力が必要だが…を期待したい。
*補足=教育出版の注の「漢学の知識が必要とされた」という部分が肝なのである。ご専門でない先生方は、うっかり「内侍」=「高い地位」に推薦されたという点だけに目を向けがちだが、「漢学」というところが清少納言のプライドを刺激したに違いないのである。


『徒然草』の例 (K書店の教科書と比較して)

 まあ、だいたいここに言いたいことは尽きているのだが、たまたま今、4月からの授業の下調べをしていて思い出した例があるので、ついでに記しておこうと思う。

 上記の中で教育出版との比較で採り上げたD社というのは、新3年生が使っている古典の教科書であるが、4月から新1年生が使う教科書はK書店の国語総合である。その中に、有名な『徒然草』第五十二段、仁和寺の法師が石清水八幡宮を訪ねようとして失敗する話が出ているのだが、この教科書では「徒歩より」のところに、
  ●徒歩で。
とだけ注がついている。つまり「より」という格助詞が難しそうだというので、その訳を与えているわけである。一方、教育出版の教科書は、
  ●徒歩で。京から石清水へは、桂川・淀川を下る舟便が普通だった。
と注をつけてある。「より」の説明だけでなく、作者兼好がなぜわざわざ「徒歩より」と記録したのかに注目させようとしているのである。つまり、この注があることによって、生徒(あるいは指導者も)「なぜ舟で行かなかったのか?」と考えることになるのであり、そこにこそこの章段を鑑賞するポイントがあることを伝えているわけである。
 もちろん、法師は「お金がない」とか「船酔いする」とかいった理由で歩いた訳ではない。その程度の理由なら、兼好はわざわざこの話を記録したりしなかったであろう。法師が歩いたのは、舟で楽してお参りするよりも、自分の足で苦労してお参りすることに意味があると考えたからである。ここからこの法師の激しい思い込み、つまり「自分はきっちりと石清水にお参りするのだ・お参りしたのだ!」が始まるわけである。
 だから、この「徒歩より」はしっかりと読み取らなければならない重要なポイントなのである。この部分をしっかり考えておかないと、例えば、この章段に対するK書店の「学習の手引き」、
  1 この章段の面白さはどこにあるか、まとめてみよう。
  2 「何ごとかありけむ…山までは見ず」の言葉からうかがえる、この法師の性格について考えみよう。
も、単なる失敗談のレベルで考えてしまうことになってしまうのである。
 ちなみに、教育出版の「学習の手引き」は、
  1 「少しのこと~あらまほしきことなり」とあるが、それは仁和寺の法師のどうのような行動に対する評か。
となっていて、「徒歩より」の読解をした上でこの問を考えさせることで、兼好の人間観察の鋭さに迫る構成になっているのだが、いかがだろう。

読点を考える

 教科書の本文を作る際は、(現在では)小学館新全集や岩波新大系をもとにする。その際、多くの教科書は、常用漢字や歴史的仮名遣いなどに注意を払った上で、その本文をそのまま用いる場合が多い。しかし、教育出版では、意味が分かりやすくなるように平仮名を漢字に直したり、逆に漢字を平仮名に開いたりするほか、係り受けが明確になるようにと読点の位置も確認するし、場合によっては句点を変更するような場合もある。
 例えば、俳論として『去来抄』という作品が割と教科書に採用されている。作者の去来は蕉門十哲だし、一話一話が短くまとまっていて例句も挙がっているので、比較的(あくまでも比較的…笑)俳論の中では取り組みやすいというのが採用される理由だろう。
 その中でも、いわゆる「ふる・ふらぬの論(言葉を置き換えることが可能か)」として有名な、「行く春を近江の人と惜しみけり(芭蕉)」の句を採り上げた部分が多くの教科書に採用されてきた。
 現在では小学館新全集を底本にする教科書が増えたので目立たなくなったが、以前、岩波大系や(旧)小学館全集を底本にしていた頃には、ほぼ全ての教科書が、最後の芭蕉の言葉を
 「汝は去来、ともに風雅を語るべき者なり。」
と大系・(旧)全集の本文そのままで教科書に掲載していたのだが、教育出版は、
 「汝は、去来、ともに風雅を語るべき者なり。」
と、「汝は」の下に読点を入れたのである。つまらないことのように思うかも知れないが、読点を入れることによって、「去来」という語が去来に呼びかけたものであることが明確になる、つまり、「汝は、ともに風雅を語るべき者なり。」という文脈の中に、「去来」という呼びかけが挟み込まれている構造だということが明確になるのである。「汝は去来、」では、「お前はやっぱりさすがに去来だよなぁ、」のような誤読を招きかねないので、敢えて校訂したわけである。

室城先生

 今まで教育出版の教科書の例を挙げてきたが、この教科書の本文や脚注に対するこだわりを支えているのは、編集委員、白百合女子大学の室城秀之先生の存在である。
 「うつほ物語」の本文校訂や古語辞典の編集、最近では『源氏物語大辞典』(角川学芸出版、2011)の編集などを通じて得られた知見をこの教科書編集の場にも生かして下さり、この教科書を使うであろう生徒にとって不明瞭・不正確な情報となりそうな原稿については、徹底的にやっつけて下さるのである。その試練(笑)を編集委員会が改善・克服しようと工夫する中で、このような教科書が作られてきたわけである(原稿やその修正案になかなか首を縦に振らない先生には、会社の編集者も苦労したに違いない…笑)。 
 この教科書編集に携わって20年以上になるが、その間、鍛えていただいたご恩ははかりしれないものがある。ただただ感謝感謝である。

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2013-03-16

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