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よく分からない道徳教育論


 今日(3月14日)の朝日新聞朝刊「オピニオン」欄に、「(私の視点)道徳教育 子どもと対話し考えさせて」と題した拓殖大学准教授石川一喜氏の論が掲載されている。しかし、この論が基本的に(高校現場しか知らない)私にはうまく理解できないのである。とりあえず、引用しよう。

 教科外活動として位置づけられていた小中学校の「道徳」が教科に格上げされる方向となり、先月、学習指導要領の改訂案が発表された。問題解決的な学習や体験的な学習を採り入れるなど指導方法を工夫し、教材を「読む道徳」から「考える道徳」への転換を試みようとしている。また、仲間同士でしっかりと議論していくことで、いじめ対策としたい文部科学省のねらいもある。
 しかし、人の価値観や倫理観に絶対はなく、唯一無二の正解がないというのが、現実社会における道徳の実像ではなかろうか。そうであれば、教師はおそろいの教材を「読む」ことで、あらかじめ設定した答えを教え諭すのではなく、「考える」というプロセスを通して、子どもたち自身にその解を導き出させるようにしていくべきだと考える。
 答えを一つと定めず、多様な視点を出し合い、受け入れながら、その先にある本質を教室全体で探っていく育みが求められている。そんな営みを通じてこそ、「道徳」がめざす人間形成が実現できるのではないか。
 そうした実践は、教師が「ファシリテーター」であって初めて成立する。これからの教師像としてファシリテーターとしての資質やスキルを持つことを私は提案したい。
 ファシリテーターは、直訳すれば「促す者、容易にする者」だが、教育現場においては、学習者たちが持つ知恵や思い、経験などを引き出し、可能性を最大限にしていく者のことを示す。
 例えば、子どもから「いじめはあってもいいと思う」という意見が出たら、「それはおかしい」と指摘しがちになるが、むしろ、そこにこそ課題解決への糸口がある。まずは、そうした意見であろうと教室全体で受け入れようとする勇気が教師になければならない。「なぜあってもいいのか」「いじめた子はなぜいじめにいたったのだろうか」というように、問いを重ね、子ども一人一人に、自分なりの「答え」を考えさせていくのだ。
 小学校の学習指導要領案には「誰に対しても分け隔てをせず、公正、公平な態度で接すること」ともあるが、これは単に道徳のねらいとしてあるだけではなく、実践する教師のあり方も問われている。
 効率性を重視した一斉教授型のやり方ではない。子どもたちと丹念に対話を重ねていくファシリテーターとしての役割が教師には求められている。時代の要請はそこにこそあると思うのである。

 石川氏の考えは第二段落によく表れている。つまり、「唯一無二の正解がない」道徳の授業では、「教師はおそろいの教材を「読む」ことで、あらかじめ設定した答えを教え諭すのではなく、「考える」というプロセスを通して、子どもたち自身にその解を導き出させるようにしていくべきだ」というわけである。そして、そのために教員には「ファシリテーター」たることが求められ、さらに「誰に対しても分け隔てをせず、公正、公平な態度で接すること」ともあるが、これは単に道徳のねらいとしてあるだけではなく、実践する教師のあり方も問われている」とも指摘しているのである。(現在行われている道徳を、石川氏は「教師はおそろいの教材を「読む」ことで、あらかじめ設定した答えを教え諭す」と評価しているようだ)
 しかし、「子どもたち自身にその解を導き出させるようにしていくべきだ」ということは、「その解」が「ある」という前提に石川氏は立っていることになるのではなかろうか。「唯一無二の正解がない」としているにもかかわらず、子どもたちには導く「その解」があるとはどういうことだろう?(揚げ足をとっているのではない、道徳を教室で実施することを肯定しながらも、「公正、公平な態度で接する」態度を見せようとすると、こういう論理の破綻が顔を出すのである。)
 さらに、「多様な視点を出し合い、受け入れながら、その先にある本質を教室全体で探っていく育み」(第三段落)と、表面上は反論できそうもない美しい表現があるが、ここで述べられている「本質」が、教える側にとっての「その解」なのであって、教える側はそれを明確に意識して持っていなければ、よき「ファシリテーター」などになれるはずがないと私は思うのだがどうであろう。
 例えば、例として挙げられている「いじめ」問題でも、「いじめがあってもいい」という意見が課題解決の糸口となり得るのは、「あってはいけない」という「その解(=本質)」があるからではなかろうか。

 石川氏も指摘しているように、文科省がやろうとしていることは「問題解決的な学習や体験的な学習を採り入れるなど指導方法を工夫し、教材を「読む道徳」から「考える道徳」への転換を試みようとしている」といった表面的な変更であって、教科外活動と教科「道徳」の本質は変わらない(むしろ「教科」であるだけにより危うさが増したということだろう)。流行の「考える」とか「問題解決」とか「体験的」といった口当たりのよい「やり方」を前面に出すという表面的な変化に誤魔化されて、道徳には唯一無二の正解がないのだから、「考える」「問題解決」「体験的」が必要で、そのために教員は「ファシリテーター」たる必要があるなどと主張しているとしたら、お気楽なことである。
 いや、危険になったからこそ、教員が「ファシリテーター」として教室をコントロールする力(良識力?)をつけるべきだ、唯一無二の正解がないのだから文科省が前提とする「その解」など無視して「公正、公平に」対話を行いながら教室をコントロールすべきだ、と主張されているのだろうか?
 それにしても、ファシリテーターにはファシリテーターとしての見識がなければならない。正解のないテーマを議論させることができるのは、正解以上の何ものかを体現しているファシリテーター以外にはありえないと私は思う。さもなければ、教室はアナーキーな「いじめがあってもいい」世界になりかねないのではないか。

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Last updated 2015-04-01

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