6月

2015.06.30 (火)  晴れ、夜に雨

 世の中、色々事件があるものであるが、新幹線で焼身自殺とは驚きである。それ以上に、「自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」での発言について、党から厳重注意処分を受けた大西英男衆院議員(東京16区)は30日、国会内で記者団に「(発言に)問題があったとは思わない」と述べた。また、「(報道機関を)懲らしめようという気はある」と重ねて語った。」(朝日新聞DIGITALより)とは、驚きを通り越して呆れる。百田氏のその後の発言も、己の人間性のレベルを示してあまりある。全くイヤですなぁ~。13447歩。

2015.06.29 (月)  晴れ

 イイ天気で個人的には平和な一日。しかし、ギリシア、大丈夫か?11512歩。

2015.06.28 (日)  晴れ

 夏休みの計画を立てる。今年は、3年前に一緒に旅行した仲間でイタリアに行きたかったのだが、仕事の関係で飛び石でしか休みを取ることが出来ず、断念することに。仕方ないので、孫たちを連れて1泊の近場旅行に出かけることと、夫婦で2泊程度の国内旅行に出かけることを企画中。夕方、クルマを6ヶ月点検に出す。
木陰

2015.06.27 (土)  雨・曇り

 久しぶりにキヤノン・フォトサークルに写真が掲載される。一つめは「紅一点」。ジャンルマスターのかとうまさゆき先生から「盛りを過ぎても目の付け所次第で作品になると言うことを実証しています。カモミールの淡い白と黄色、葉の緑の色の中で赤いポピーがひときわ輝いています。ポピーだけにピントが合っているので、赤色の花が大きく見えています。」とご講評いただく。
紅一点
 二つめは「pale color」。同じくかとうまさゆき先生から「背景の白いボケがとてもよいので、淡い紫色のガクアジサイがとても綺麗に表現されています。ピントを合わせる位置も正確なので、ガクアジサイだけに視線が集中しています。淡い紫色の花が印象に残る美しい色の作品になっています。」とご講評いただく。
pale color

2015.06.26 (金)  曇り・雨

 国語科の歓送迎会。赤坂見附で、懐かしい顔と久しぶりの会話を楽しむ。そんな楽しい日なのに、ニュースの方には見逃せないアホ事態が…。今日の朝日新聞DIGITALから。

 安倍晋三首相に近い自民党の若手議員が立ち上げた勉強会「文化芸術懇話会」(代表=木原稔・党青年局長)の25日の初会合で、出席議員が、沖縄の地元紙について「左翼勢力に完全に乗っ取られている。沖縄の世論のゆがみ方を正しい方向に持っていく」と発言していたことが分かった。
 出席議員は米軍普天間飛行場の移設問題で政権に批判的な沖縄タイムスと琉球新報をあげて「沖縄の特殊なメディア構造を作ったのは戦後保守の堕落だ。左翼勢力に完全に乗っ取られている」などと批判した。
 出席者などによると、講師役として招かれた、首相と親しい作家の百田尚樹氏は「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。そこを選んで住んだのは誰やねん」「沖縄は本当に被害者やったのか。そうじゃない」などと答えたという。

さらに、別の記事によると、

 出席者によると、議員からは「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけて欲しい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」など、政権に批判的な報道を規制すべきだという意見が出た。

とある。安倍首相の遺憾発言もあったようだが、本心というよりは単なる火消しのイメージであることも見え見え。それにしても、百田氏の発言には呆れる。想像力のかけらもない人間が何を思おうが勝手だが、それを発言するとしたら、それは人間としての資質に関わる問題だろう。ここには採り上げられていないが、「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」とも発言したらしい。作家自らが報道の自由を背を向けるとは、驚くべき堕落である。
 また、下らないマスコミを懲らしめることには私も大賛成だが、自分たちに都合の悪い情報を規制しようとする自民党議員の姿勢の中には、思い上がりも甚だしい今の党心理がよく表れているように思う。報道規制を何の躊躇もなく話題にするその無神経さ、いくら非公開とはいえあまりにレベルの低い発言をたしなめもしない無神経さには、ただただ驚くほかない。そういう議員たちこそ「列挙」して、落選させるに限るのではなかろうか。13441歩。

2015.06.25 (木)  晴れ

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 朝日新聞DIGITAL より引用。

(論壇時評)憲法と民主主義 独学で見えてきたこと 作家・高橋源一郎
 辞書を引きながらであれば、少し、ドイツ語を読むことができる。ずっと辞書を引きっぱなしでよければ、ロシア語もなんとかわかる。どちらも独学だ。
 18歳の時、拘置所に7カ月と少し入った。その頃、社会や政治について話す自分のことばの薄っぺらさが心底イヤになっていた。すべてが受け売りに思えた。だから、なにもかも一から勉強しようとした。翻訳ですら信用できず、読むなら原典にあたるしかない、と思い詰めていた。あらゆる本を読んだが、正しく学問の方法を学んだことがないので、わからないままのことも多い。独学の弊害だろう。だが、独房がわたしの大学だった。
 今月初め、国会に参考人として招致された学者たちが「安保法制」を「違憲」であると発言し大きな話題になった。「安保法制」の問題点について語る小林節さんや長谷部恭男さん(〈1〉)のことばは、わかりやすく、しかも、そこで大切なことがいわれていることもわかった。けれども、それを受けとめる側の自分に、ほんとうに必要な知識がないような気がした。まず、勉強しなくちゃ。
 内閣法制局長官だった阪田雅裕さんの『政府の憲法解釈』(〈2〉)<副読本は『みんなで読む国連憲章』〈3〉>を読み、多くの疑問が解けた。「憲法」の「解釈」は勝手に変えてはいけないものだ、ということ、「集団的自衛権」というものは、国連憲章で初めて生まれた新しい概念で、わかりにくく、実際には、旧ソ連やアメリカの軍事介入の口実に使われていて、問題が多いこと。
 「安保法制」が「違憲」ではないことの例として「安保条約下」の「米軍駐留」を事実上「合憲」とした「砂川判決」というものが挙げられていたので、ネット上で判決文(〈4〉)を探しだし、その全文も読んだ。判決文よりも、その補足として書かれた田中耕太郎最高裁長官の意見が、異様なほど「合憲」推しで、そのアツさにびっくり。参考のために『砂川事件と田中最高裁長官』(〈5〉)を読み、田中さんが駐日アメリカ公使と入念な打ち合わせをしていたことにもびっくりした。日本の「司法」はアメリカの意向を大切にしていたのだ。だが、いちばんびっくりしたのは、「法」というものが、この「司法判断」のように、ときに大きく社会を動かしてしまう力を持っている、という事実だった。
 法律の専門誌が示し合わせたように、ほぼ同時に「憲法」や「戦後70年」や「集団的自衛権」に関する特集を出した。「論究ジュリスト」の巻頭鼎談(ていだん)で、樋口陽一さんは、フランス人研究者の論文をとりあげ「彼によると憲法そのもの、そしてそれを取り扱う憲法学が、戦後日本の権力に対する抑止要素として……役割を演じてきた」とした(〈6〉)。
 また、「法学教室」の巻頭論文で、佐藤幸治さんは、現在の日本国憲法を「立憲主義の到達点」とした上で、ドイツ憲法(基本法)草案にある、こんなことばを引いている(〈7〉)。
 「国家は人間のために存在し、人間が国家のためにあるのではない」
 「(憲)法」は、国家のあり方を規定する。「(憲)法」や、その解釈が変えられるということは、国家のあり方そのものが変えられることに他ならない。特集から伝わってくる学者たちの切迫した思いは、その事実からやって来る。
 いま「民主主義」そのものの意味が問われる時代になって、その始原にまで溯(さかのぼ)って考えたいと思い、橋場弦さんの『丘のうえの民主政』を読んだ(〈8〉)。ここに描かれた、歴史上初めて「民主主義」を生んだ古代アテナイの人びとの壮大な実験が胸をうつ。平和の時代ではなく、絶え間なく続く戦争の最中にあって、アテナイの人びとは、熟議と公平を追求した。
 なぜ、2500年も前の古代ギリシャの政治体制を探究する必要があるのか。すべての市民が「政治」への参加を要請された共同体とは何だったのか。橋場さんは、その問いにこう答えている。
 「ペリクレスが理想とした民主政とはたんなる国家制度ではなく、一つの生活様式(way of life)であった。そこではどの市民も民主政への参加を期待される……われわれが現代に生きる限り、何かの専門領域にしばられるのは避けられない宿命である。広い意味での官僚制なしに近代文明が一刻も維持できないのは、だれもが承知していることだ。にもかかわらず、民主政と官僚制とは根本のところで相容(あいい)れない。自分の専門領域だけに閉じこもる無機的な人間だけが社会を構成するようになったとき、民主政は生きることをやめるだろう」
 政治家たちの中に「学者」を毛嫌いする気分があるのは、自身の「専門領域」を侵されることへの本能的な反発があるからだ。だが、人々が、それぞれの「専門領域」へ閉じこもることへの危惧から、民主政は始まったのである。
 スペイン語を始めた。もちろん独習。パブロ・イグレシアスというスペインの若い政治家の記事(〈9〉)を読んでからだ。彼はオキュパイ(占拠)運動の先がけ「M15運動」から生まれた市民政党「ポデモス」の党首。ポデモスは欧州議会選挙で国内第4党に躍進し、総選挙の結果次第では首相の可能性も取り沙汰されている。そんな彼の躍動する演説は、音楽とミックスされ、ラップとして広がっている(!)。いま生まれつつある、社会を作る新しいことば。それをどうしても読みたかったのだ。
〈1〉小林節、長谷部恭男ら憲法学者3氏が衆院憲法審査会で、安全保障関連法案を「違憲」とする見解表明(今月4日)
〈2〉阪田雅裕『政府の憲法解釈』(2013年刊)
〈3〉『みんなで読む国連憲章』(1991年刊)
〈4〉砂川判決の裁判要旨と全文など(http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816)
〈5〉布川玲子・新原昭治『砂川事件と田中最高裁長官』(2013年刊)
〈6〉樋口陽一らの鼎談「いま考える『憲法』」(論究ジュリスト・春号)
〈7〉佐藤幸治「1945年8月15日と日本国憲法」(法学教室5月号)
〈8〉橋場弦『丘のうえの民主政』(97年刊)
〈9〉パブロ・イグレシアス「『我々にはできる!』」(世界7月号)

 「国家は人間のために存在し、人間が国家のためにあるのではない」とはイイ言葉であるなぁ。
海辺を走るレガシーのCFがカッコイイなぁ。)
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2015.06.24 (水)  晴れ

 梅雨の合間の夏らしい一日。なでしこ8強、ばんざい! 9514歩。

2015.06.23 (火)  晴れ・雨

 仙台二高の先生方に、3年生の古典の授業をお見せする。
 夜の教育法では、一人4年生が選択していて、その学生がちょうど教育実習を終えたところだったので、スピーチとからめながら実習の様子を話してもらう。母校の3年生を担当したとのことだが、生徒とうまく人間関係がつくれて充実した実習体験になったようだ。その楽しげな雰囲気が、指導案作成などの辛い話の合間にも感じられて、来年実習に出かける学生たちにもイイ影響を与えることができたのではないかと思う。
 帰りがけ、大雨にやられる。14429歩。
 北朝鮮やロシアの脅威(が、もしあるとしてそれ)に備えるとしたら、集団的自衛権などではなくて、歴史認識を互いに深め合うことで、韓国との関係を改善する方がよっぽど効果的であり、生産的ではなかろうか。そういう点を、安倍首相にはしっかり認識していただきたいものである。

2015.06.22 (月)  晴れ

 早稲田大学で、ウィルスに感染した事務職員のパソコンから、学生や教職員の個人情報3308人分が流出したそうだ。我々都立の教員にもネットにつながったパソコンが一台ずつ与えられているが、他人ごとではない気がする。うっかり添付ファイルを開けたりすることがないよう注意しなければ…と思いつつ、うっかりやってしまうのが人間というものなのである。11290歩。

2015.06.21 (日)  曇り・雨・晴れ

 父の日であるが、編集会議で(お天気同様)沈んだ気分…であったが、一緒に仕事をしているI先生がサクランボを差し入れして下さり、あっという間に気分転換(笑)。仕事もはかどり、予定よりも早く終了であった。
食べごろの佐藤錦が山盛り!)
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2015.06.20 (土)  晴れ

 ライカプロフェッショナルストア銀座で行われた、写真家ハービー山口さんの講演会を聞きにいく。
(1)高校生の時にファンだった森山良子さんのコンサートに行き、ご本人に「写真を撮らせて下さい」と頼んだら、「良いわよ」と承知してくれたことが写真家への道の背を押してくれた最初だった。その時、マネージャーかなんかが出てきて「ダメダメ」とか言ってフィルムをカメラから引っ張り出されたりしていたら、今の僕はないだろう。今では、直太朗さんのアルバム歌詞カードの写真を撮ったりしている。(初めて聞いた話)
(2)大学で写真を撮り始めた頃、公園でバレーボールをしていた中学生の女の子の写真を撮らせてもらった。脊椎カリエスだったためいじめられっ子で、友だちの顔は怖い顔しか見たことがなかったのに、その女の子の瞳の輝きが素晴らしく、以後、その瞳を撮りたくて写真を続けている。そういう被写体との出会いが写真家にはあるものだ。(彼の本で読んだことのある話)
(3)その後、その子と2度ほどバイクでデートしたが、写真はない。心の中にとどめているからである。(初めて聞いた話)
(4)大学を卒業したが就職できず、どうせニートをやるならロンドンでと思って、親に金を借りてロンドンに。6ヶ月ビザだったが、劇団員になったりして結局10年間ロンドンで過ごした。その劇団の縁で、色々なミュージシャンに出会った。(初めて聞いた話)
(5)レコードでしか知らなかった有名なドラマー(マイケル・シュリーブ)から、「人生は名誉やお金だけじゃない。僕はこのスティックで何が出来るか試したいんだ、君はそのカメラで何が出来るのか試しているのだろう」と言われて勇気をもらった。(初めて聞いた話)
…といった感じで、とても素敵なイイ話が満載であった。すでに本で読んでいた話も、ご本人から直接聞くと味わい深く、やはりその道で秀でた人の話には説得力があるなぁと思った。
放課後、裸足で楽しそうに川を渡る女子高生。「人を幸せにする写真」だそうです。なるほど。)
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私の被写体は、この瞳の輝きですな…笑)
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2015.06.19 (金)  雨

 合唱祭。1年は例年並み、2・3年生はレベルがアップしたなぁと思ったのだが、専門家が聞くとそうでもないのか、今年は梁田賞がなしということに。ちょっと納得できない気もしないでもない。審査のコメントなどを聞いていると、どうも御年82歳の旗審査委員長の影響力が薄れてきているような感じである。ただし、そうなると、来年度に向けては選曲の傾向も考えなければならないのかも知れない。ちなみに、今年の総合1位のクラスは「一詩人の最後の歌」、2位のクラスは「手まり」…って、両方とも昨年35Rが歌った歌である(笑)。懐かしいなぁと思いながら楽しませていただきました。7342歩。
 集団的自衛権に関して憲法学者3人が違憲と判断したということで、調子に乗って長谷部氏や小林氏の見解を取り上げたり、政府批判の理路の素晴らしさに共感したりしている人もいるようだが、もともとこの二人は改憲論者である。油断大敵である。ついでに、今日、合憲とする憲法学者2人が会見に応じたが、そもそも「憲法」というものと主権国家というものとの関係をどのように考えるのか、まったく理路が通っていないお粗末な会見であった。

2015.06.18 (木)  曇り・雨

 選挙権年齢を18歳以上にする改正公職選挙法がきのう成立したことを受けて、今日の朝日新聞「(耕論)18歳からの1票」から、現代日本の政治を分析している大川さんの論を引用しておこう。

将来の不利益、覚悟持って 大川千寿さん(神奈川大学准教授)
 課題や問題は多いと思いますが、選挙権の拡大に基本的には賛成です。ただ、仕組みを変えることだけを過大評価してはいけません。
 選挙と政党の分析を専門としていますが、ここ20年ほどの日本の政治は制度を変えることにエネルギーを費やしました。18歳選挙権を巡る議論は、2000年代初頭から、民主党を中心に主張されてきました。
 しかし、過去の選挙権拡大のように運動の成果として勝ち取られたというよりは、今回は政治的思惑が先行した側面が大きい。安倍政権は政治目標である憲法改正の国民投票に持ち込みたい。そのためには、民主党との間で国民投票の年齢引き下げに合意した「18歳以上」に、選挙権全体も引き下げる必要があると判断したのでしょう。
 日本社会が成熟したために、どの政党にとっても、新しい支持層を開拓することが難しくなっています。これまで選挙権を持たなかった18歳と19歳の計240万人は、残されたほぼ唯一の「宝」と、各党がとらえたとしても不思議ではない。だから主要政党がこぞって賛成に回ったと考えるのが自然です。
 ですから、来年の参院選から導入されても、制度改正が投票率アップをはじめ、選挙結果に短期的に大きな変化をもたらすとは期待していません。
 講義やゼミ、大学以外の活動で若者と接する機会が多いのですが、民主主義を所与のもの、当たり前のもの、静的で、誰かから与えられるものという意識がますます広がっているように感じられます。丸山真男以来の課題ではありますが、政治に自ら参与していくようにするには、どうすればよいかが問われています。
 今の若者にとって、雇用、年金、福祉など、どの点を見ても、先行きは決してバラ色ではありません。得られる利益は少なく、むしろ不利益が目立つという状況でしょう。そこで、若いうちから政治は複雑で難しいものだということを引き受けること。さらに、状況を変えていくという熱意と創造性をもっておくことはとても大切です。
 こうした政治に対する覚悟を若者が確かに抱けるようにし、政治と有権者との間で細った回路をもう一度豊かにすることこそ、今回の制度変更が目指すべきものではないでしょうか。
 実はこの問題の根は、若者への教育・啓発を強化する立場にある大人たちにもあるのです。お年寄りの投票率は高いが、若者の投票率が低いのが問題だという声が一部にあります。でも、これまで高いとされてきた40歳以上の投票率も下がっていることを見過ごせません。選挙権の拡大を機に、未来を担う若者とともに、有権者全員が考えるきっかけにしてほしいと思います。

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2015.06.17 (水)  晴れのち雨

 合唱祭がいよいよ金曜日に迫り、朝から昼から放課後から、校舎中が歌声でイイ雰囲気である。夜、新しい教科書の編集会議。12741歩。
 今日の新聞から。(朝日新聞DIGITALより)

自民・高村氏「学者は憲法尊重義務を課せられていない」
 最高裁の判決が、個別事件について示されたものだという憲法学者らの指摘はその通りだ。ただ、司法審査は個別事件についてやるものだということと、最高裁がそこに示した一般的法理を尊重するかしないかは別の話で、我々憲法尊重擁護義務を課せられた政治家が、一般的法理を尊重しなければいけないのは、ごくごく当たり前のことだ。
 最高裁は「国の存立を全うするための必要な自衛の措置は講じうる」と一般的法理で示している。「国の存立を全うするための必要な自衛の措置」は政治家が考えなければいけないことだ。「必要な自衛の措置」の中に、国際法的には集団的自衛権とみられるものが含まれるのであれば、その限りで集団的自衛権も容認される、と当たり前のことを当たり前に素直に言っているだけだ。
 学者は憲法尊重擁護義務を課せられてはいない。学問の自由があるから、最高裁が示した法理でも「それが間違っている」と言うこともできる。我々憲法尊重擁護義務がある人間は、最高裁が示した一般的法理を尊重する、という、単純な、当たり前のことを言っている。(自民党本部で記者団に)

 高村氏はもう完全に「焼きが回った」としか言いようがないありさまである。「我々憲法尊重擁護義務を課せられた政治家」などという発言には、違憲と判断されることを政治家が遂行するのは、「憲法尊重擁護義務」がある政治家としてはあるまじき行為だ、という指摘が報道各社からなされ始めている状況に、慌てて言い訳しているとしか言いようのない心理が見え見えであろう。しかも、憲法をまったく尊重しないゴリ押しで法案を提出しようとしていることも見え見えなのだから、ますます笑止千万としか言いようがない。

2015.06.16 (火)  晴れ

 なでしこはイイ感じだが、男子の方はなかなか厳しそうであるなぁ…。夜の教育法では、「年間指導計画を立てる」という作業をいきなりやらせてみたのだが、考査範囲を意識したり、教材のジャンルのバランスを考えたり、学校行事や長期休業との関連を考えたりと、例年ならこちらがヒントを出すようなことをすでに自ら意識して計画と立てている学生が何人もいて、なかなか優秀である。12899歩。

2015.06.15 (月)  晴れ

 今日は全館冷房がかかったが、まあ、それだけ暑かったということである。いつも通りの忙しい月曜日である上に、3限には管理職による授業観察もあったが、なんとか乗り切る。10205歩。
 朝日新聞の今日の朝刊一面には

 大学入試センター試験に代わって2020年度から始まる新テストで、文部科学省が、記述式問題についてコンピューターによる採点支援を検討していることがわかった。新テストでは、表現力などを問う長文の記述式問題を24年度から充実させる計画。採点時間を短縮するため、人手を補うのが狙いだ。
 新テストの「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」では、選択式だけでなく記述式問題も取り入れる。20~23年度も記述式を導入するが、解答が数十文字程度の短いものになりそうだ。
 記述式は採点に時間がかかるため、約55万人が受験するセンター試験ではできなかった。新テストに向け、採点期間を長くすることや、コンピューターで記述の解答も採点できる仕組みづくりを検討している。文科省によると、例えば正解に必要な単語の有無をコンピューターが判断し、無ければ、後で採点する人に示すことなどを想定している。

とあるが、「解答が数十文字程度の短いもの」「正解に必要な単語の有無をコンピューターが判断」といったレベルで「記述式」といえるのだろうか。やらないよりはイイといったレベルか。

2015.06.14 (日)  晴れ

 5歳と3歳になる孫娘たちの誕生会(おまけで父の日…笑)。人生初マグロが食べたいという孫姉の要望に応えて、近所の(私も人生初!)「かっぱ寿司」に出かける。いやはや、バカにしたものではなく、値段を考えると十分に楽しめる店であった(ラーメンからデザートまであるメニューは家族連れにはうれしいに違いないし、それなりに美味しゅうございました)。ちなみに、最初に108円の赤みの握りを食べた後、216円の中トロを食べた姉は、「こっちの方が甘くておいしい!」という感想であった。う~む。
ケーキは家で)
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2015.06.13 (土)  晴れ

 たまっている学校以外の仕事を片付ける(…って、片付け終わっていないが…笑・泣)。
 憂さ晴らしに?大人買い。
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2015.06.12 (金)  雨のり曇り

 今週は大学の特別授業で大学の教え子たちと飲んだり、模範授業で若い先生方にお会いしたり、卒業生とも会話を楽しんだりと充実した一週間であったが、その分疲れもたまった感じで、それが今日のようなジメジメ天気の日には如実にあらわれる感じである。しかも、今日は先日の宿泊防災訓練の調整休で、午後は早く帰れるはずだったのだが、大事な仕事が突然舞い込んできて帰れずじまい。やれやれ…。11441歩。
 都教委が今年の入試での採点ミスが1064件あり、来年は選択式問題を増加させる方針だと説明したそうだ。ミスをする側が意見を言うのも何だが、本末転倒だろう。「選択式問題でも思考力が見られるように工夫したい」と都教委は話したそうだが、マークセンス式の大学入試センター試験は、すでにコンピュータに解かせても偏差値が60近くに行くような現状である。簡単に「思考力が見られるように工夫」することは難しいだろう。
 作家瀬戸内寂聴さんのエッセーが朝日新聞に連載されはじめた。今日のエッセーの一節を引用しよう。

 円地文子さんが源氏の仕事場として、当時、私の棲(す)んでいた目白台アパートの一室を選ばれたので、私は六十過ぎた円地さんの決死の仕事ぶりを真近(まぢか)で見ていた。月曜から金曜まで、円地さんは仕事部屋に坐(すわ)りきりでひたすら書きつづけた。疲れると、電話で私にお茶をいれるように命じた。上気した顔で私の捧げるお茶をぐいぐい飲みながら、源氏物語について、興奮した口調で話しつづけられた。その仕事の途中、網膜剥離(はくり)で二度も長い入院をされ、二つの眼(め)の視力をほとんど失われたが、その仕事を止(や)めなかった。横でみている私はこの仕事は命がけでなければ出来ないことを教えられた。それでも、いつか私もやろうという想(おも)いは消えなかった。ある時、血相を変えて「川端康成氏が源氏の訳をはじめられたのを聞いたことがあるか」と私につめ寄られた。実はその一週間ほど前、私は京都のホテルの部屋で、源氏の訳をすでにされている現場を、川端さんに見せられていたのだけれど、円地さんの見幕(けんまく)に怖(おそ)れをなして知らないと言ってしまった。円地さんは白い顔に血を上らせ、「ノーベル賞で甘やかされている作家に、こんな辛(つら)い仕事がつとまるものですか。もし出来たら、あたし、裸になって銀座を逆立して歩いてやる」
とおっしゃった。いかにもお嬢さま育ちらしい円地さんの素直な怒りっぷりに、噴きだしながら、それほど自分の仕事に愛着と自信を持つ円地さんの一途さと若々しさに感動してしまった。円地さんが亡くなられてから、ようやく私はその仕事に取りかかった。そんな話のあれこれを、私は四十五歳も若い孫の様な角田さんにしてあげたいと思って、心が弾んできた。

 私だったら、「いくら現代語訳をしたって原典には及ばないのだから、ご自分の作品をお書きなさい」と言いたいところである。意地悪く言えば、書くことがもはや自分の中にはなくなってしまったから、源氏を訳してその空白を埋めているのではないか…といったところである。つまり、瀬戸内氏が語る円地氏のエピソードにはまったく共感しないのである。

2015.06.11 (木)  晴れ

 自民党の高村副総裁が「自衛の措置が何であるか考えるのは、憲法学者ではなく我々政治家だ」と発言したらしいが、自衛が何であるか、安全な党本部の中から出て、戦闘の最前線で考えてもらいたいものである。高村副総裁については、次のような発言も報道されている。こういうことを(考えているのはともかくとして)発言することに今の自民党の驕りがまざまざと表れているのではないか。10389歩。

 枝野幸男・民主党幹事長が「高村さんは、司法試験に受かる程度の憲法の勉強はしたと思うが、それ以来憲法学者のように憲法をずっと勉強してきたのか」というようなことを言っていた。私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある。枝野さんがあまり考えてこなかったからといって、他の政治家がそういうことを考えてこなかったと速断するのはどうかと思う。(朝日新聞などの取材に)

 高村氏が憲法について考えていないとは思わないし、むしろ人並み以上に考えてきただろうことは想像できる。しかし、それをこういう形で表現するとしたら、「私は何でも知っている。私の考えの正しさには自信がある。誰も意見の必要ない。」と言っているのに等しいのである。自信を持った人間ほど怖いものはない。そこには、多様なものの見方、考え方があるということに対する驚くべき無感覚が表明されているのである。謙虚さを失った議員ほど恐ろしいものはない。歴史を振り返れば明かだろう。

 こういうレベルの低い発言で辟易した方々のために、癒やしの画像を(笑)。
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2015.06.10 (水)  晴れ

 午前中、「模範授業」!(←指導教諭は年間3回の公開授業をこの名称で行うのである…)ということで、上野高校と東久留米総合高校のお若い先生お二人が授業見学にいらっしゃる。研究協議では色々と質問されたが、お若い先生と話をしていると、日比谷はベテラン(年配…笑)の方が多いせいか、こちらまですがすがしい感じで元気が出る気がしてくるから不思議である。お二人には教材研究の大切さを伝えたつもりであるが、これからのご活躍を期待したい。
 帰りがけ、理科大の大学院に行っている卒業生が、砂防会館で企業向け研究発表を行った帰り道だと言って顔を出してくれる。時間があったので、久しぶりに赤坂見附のマルーモに行って、ピザを食べながら会話を楽しむ。8月からインドネシアの大学に留学するとのこと、ますますの活躍を期待したい。11757歩。
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2015.06.09 (火)  雨のち曇り

 今日の教育法は、都の教員になっているOB・OGを招いての特別講演。この講座から都の教員になった学生(というか同僚である…笑)の一人は、昨年結婚して、今年は妊娠・出産である。その育休の様子などを語ってもらうことで、いかに都が女性にとって(相対的にではあっても)働きやすい職場であるかを伝えてもらった。ぜひ、多くの学生諸君に教員の道を目指してもらいたいものである。ちなみに、残りの二人の男子も(って、同僚です…笑)それぞれに5年目の新人としてがんばっているのだが、そのうちの一人が勤めている学校の校長が私の大親友であることがわかったり、もう一人が勤めている学校の生物の先生が、このOB・OG講演会の初代講演者だったことが分かったりして、講義の後の飲み会は大盛り上がりなのであった。14317歩。

2015.06.08 (月)  晴れのち曇り

 梅雨入りだそうである。15035歩。
 ところで、こんな記事がある。(朝日新聞DIGITALより)

その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省
 文部科学省は8日、全86の国立大学に、既存の学部などを見直すよう通知した。主に人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。
 国立大には、法人化された2004年度以降、6年ごとに「中期目標」を作って文科省に提出する義務がある。6月末が16年度からの目標案の提出期限で、大学の認可を受けるには、目標が通知の趣旨に沿っている必要がある。 
 通知は「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の転換に積極的に取り組む」ことを求めた。例えば、人文社会系の卒業生の多くがサラリーマンになるという実績を踏まえ、大学は地元で必要とされている職種を把握。需要にあった人材を育てる学部に転換するなどといった想定だ。
 文科省によると、自然科学系の研究は国益に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、文学部や社会学部など人文社会系は成果が見えにくいという。国立大への国の補助金は計1・1兆円以上。子どもが減り、財政事情が悪化する中、大学には、「見返り」の大きい分野に力を入れさせるという考えだ。
 産業界などの需要を考慮すれば、結果として理系が増える可能性があるが、文科省の担当者は「文系を減らして理系を増やすという意味ではない」と説明する。見直した結果、別の文系学部への転換も可能だ。成果が出にくい分野の学部でも、将来の成果を示せれば相応の評価をするという。

 税金でまかなわれているわけだから、ある意味仕方ない部分もある。しかし、「人文社会系の卒業生の多くがサラリーマンになるという実績を踏まえ、大学は地元で必要とされている職種を把握。需要にあった人材を育てる学部に転換するなどといった想定だ」とは、企業が大学で学ぶ内容を決める、つまり、企業の下に大学があるという発想そのものであり、本末転倒も甚だしい。こんな短絡的なことをしていると、国家百年の計を誤ることになるに違いない。最近の官僚や政治家は、まるで国家を株式会社のように考えているようで、短期的な経営利益・目標にしか目が向かない、いや、そこにしか目が向けられないようだ。困ったことである。

2015.06.07 (日)  晴れ

 今日は家の用事がいろいろあって、来客を迎えたりしながらのんびり家で過ごす。
ノウゼンカズラがこの時期にすでにこの状態)
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我が家の玄関前を2階から。青とピンクのアジサイ、黄色のビヨウヤナギ)
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青のガクアジサイ)
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2015.06.06 (土)  雨のち晴れ

 宿泊防災訓練も無事終了。ただし、まったく意味のない行事である。生徒は学校に友だちと泊まって一晩中楽しんだだけである。講話や訓練など、わざわざ泊まってやる必要はまったくない。
 さて、木曜日から今日にかけては「違憲」が話題であるが、ご存じの通り、憲法とは国が守らなければならない法である。「違憲」とされる事案については、すぐに引っ込めるべきである。ただし、誰が「違憲」と判断するのかは依然として難しい問題ではあるから、いくらでも国は言い逃れをするのであろう。国民投票か…などと考えていたら、今日の朝日新聞の「耕論」が大阪都構想を題材に「イエスかノーかの民主主義」という特集を組んでいておもしろかった(論者は若手哲学者の國分功一郎さん、元三重県知事の北川正泰さん、作家の高村薫さん)が、その中から「なるほどこういう考え方もあるなぁ」と納得した高村さんの議論を引用しておこう。
■信頼できる議会作りから 高村薫さん(作家)

 住民投票という直接民主主義の手法には、それが機能する適正なサイズとテーマがある。大阪市民ではない大阪府民として、大阪都構想の住民投票を脇で見て痛感したことです。
 有権者210万人は多すぎます。住民投票は、横断歩道か歩道橋かというような、生活に身近な「一つのテーマ」について多くて数万人の単位で行うべきもの。大阪市を解体し権限を府と特別区に移すという、どう考えたらいいのか難しい、論点が複数ある問題を全有権者が正確に理解できたとは思えません。財政効果を賛成派は2700億円、反対派は1億円という。どちらが正しいか分かりますか。
 最大の違和感は、選択肢がイエスかノーかで中間がなく、1票でも多い方に決まること。大阪で「今のままでいい」と考えている人はいない。変えなければと思っていても、都構想は困るからと反対票を入れると、結果的に「今のまま」を認めたことになる。このズレは住民投票では全く解消されないんです。
 近い将来に想定される改憲のための国民投票にも違和感があります。まず筋道が違います。歴代内閣が数十年にわたって積み上げてきた憲法解釈を一内閣の閣議決定で覆した後、関連法を成立させて、最後には憲法を変えたいので国民投票して下さいと言われても、それは受け入れられませんよ。
 手続きが正当で論議が尽くされたとしても、違和感は残ります。悩んで悩んで、賛否を決めるしかありません。仮に憲法9条改正のような最終的に人の生き死ににつながるテーマで二者択一の選択を迫られるとすれば、国民には重すぎると思うんです。それは国民の義務でしょうか。何千万人もの有権者が問題を正確に把握し、判断できるでしょうか。私は懐疑的です。
 そうした難しい判断を任せるためにこそ、自分たちの代表を送り出し、政治を託している。事ある時に結果責任を負ってもらえると思うから、彼らが作る法律やルールを国民は守っている。国民に賛否を問い、その声に従っただけだというなら、責任を取る人がいなくなります。
 国の未来を決定づける重大テーマだからこそ、国民投票にかけるというのなら、議会がきちんと機能していることが大前提です。でも、安保関連法案の国会審議のひどさはどうでしょう。
 社会が多様化し、選挙で選出された議員が有権者の意思を代表できない事態は欧米各国でも問題となっていますが、当面は代議制民主主義に代わるものはありません。ならば信頼できる議会をつくるほかはない。まずは身近な地方議会を私たちの手の届くものにする。地方が変われば、やがて国会も変わる。時間はかかっても、これしか民主主義を強くする方法はないと思います。 (聞き手・畑川剛毅)

2015.06.04 (木)  晴れ

 明日は宿泊防災訓練のため更新できませんが、悪しからず。
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2015.06.03 (水)  雨・曇り

 前期期末考査第3日目。3年生の答案が出て採点を始める…が、今年の3年生はヤバいかも(笑)。まあ、育て甲斐があるということにしておこう。11197歩。

2015.06.02 (火)  晴れ

 前期中間考査第2日目。1年生の答案の採点を終える。漢字の出来は今一つ(今二つ、三つ…)だったが、全体的には例年並みか。
 午後から「指導教諭任用時研修」に参加する。いつもの通りのグループワークがメインだが、(自分でいうのも何だが)さすが「指導教諭」の研修だけあって、発言内容のレベルが高く参考になる点も多々あって、今まで参加した研修の中では最もタメになるものであった。ちなみに、高校国語は私を入れて5名参加。12951歩。
 今日の朝日新聞朝刊から引用。
「(インタビュー 核と命を考える)米国で原爆神話に挑む  ピーター・カズニックさん」
*1948年生まれ。米ニューヨーク生まれ。高校時代にベトナム反戦運動に参加。首都ワシントンにあるアメリカン大学の教授、核問題研究所長。

 広島・長崎への原爆投下は、日本の降伏をもたらし、本土侵攻で失われる数多くの命を救った――。そんな「原爆神話」に挑み続ける米国人がいる。20年前、退役軍人の反対で頓挫したスミソニアン博物館の原爆展を引き受け、被爆70年の今年、新たな原爆展を開催するアメリカン大のピーター・カズニック歴史学教授に聞いた。
 ――オリバー・ストーン監督と手掛けたドキュメンタリーと本「語られない米国史」で、原爆投下の経緯に疑問を投げかけました。米国内の反応はいかがでしたか。
 「作品への批評の85%は極めて好意的です。しかし、これを嫌う保守派もいるし、ヒラリー・クリントン元上院議員らに代表されるベトナム戦争を支持した民主党の『冷戦リベラル』と呼ばれる人々も、私たちに批判的です」
 ――20年前、スミソニアン博物館が企画した原爆投下機エノラ・ゲイと広島・長崎の被爆資料を並べて展示する原爆展は、退役軍人らの猛反対で中止になりました。米国の原爆投下をめぐる言説に挑戦するような作品に、いま好意的な反応が寄せられるのはなぜでしょう。
 「20年前に猛反対した世代の多くは亡くなり、原爆投下決定をめぐる議論は沈静化しました。戦争終結50周年だったその時が、彼らの遺産を残す最後だったのでしょう。第2次世界大戦を戦った退役軍人らは『よい戦争』だったと信じていました。それに対する批判を少しでも許すと、彼らが信じる物語全体が壊れてしまうのです」
 「日本本土に侵攻すれば、徹底抗戦にあい、米兵らに多くの犠牲が出るだろうとの言説を、当時の米国人らは信じていたのです。しかし、私たちは『米国の兵士らのおかげで戦争に勝ったのであって、原爆のおかげではない。原爆は逆に兵士らの功績を傷つけるものだ』と訴えてきました」
 「年配の世代の人たちは(原爆投下を命じた)トルーマン大統領は英雄だったと信じています。実はトルーマンは日本側が降伏したがっていることを知りながら、かたくなに日本側が求めた降伏文書の文言変更を拒んだりしました。そうした事実を知らぬまま、『原爆神話』を信じているのです」
 ――トルーマンが広島・長崎に原爆を投下した真の狙いは何だったと考えますか。
 「トルーマンの頭の中にソ連の存在があったのは間違いありません。ソ連が参戦する前に日本の降伏を促したかったのです。原爆投下によって、ソ連に対してメッセージを送ったのです。日本の最高戦争指導会議は1945年5月、ソ連の仲介によって、よりよい降伏文書を得ようとしていました。広田弘毅元首相は駐日ソ連大使に6月初めに会って、一刻も早い降伏の意思を伝えています」
 ――ソ連への牽制(けんせい)ですか。
 「米国が広島・長崎に原爆を投下した時、ソ連の指導者らは真の標的は日本ではなく、自分たちなのだと理解していたはずです。米国の原爆開発を指揮したレスリー・グローブス将軍も『ソ連が我々の敵だ。日本ではない』と明言しています」
    ■     ■
 ――原爆が勝利をもたらしたというのは「神話」であって、実際にはソ連の参戦が決定打だったということですか。
 「トルーマンは『8月15日までにスターリンが対日参戦する。そうしたら日本は敗北する』と述べていました。4月11日や7月2日の機密文書には、『ソ連が参戦したら戦争が終わる。日本はそれ以上抵抗できない』と明記されています。米国は日本側の通信を傍受しており、7月18日の日本側の公電によると、天皇が和平を求めていることをトルーマンとその周辺は知っていたのです。だから、原爆によって戦争を終わらせたのではなくて、戦争が終わる前に原爆を使いたかったのです」
 「原爆投下で米軍は日本本土に侵攻する必要がなくなり、多くの米兵の命が救われたという言説は、論理的にもつじつまが合いません。米軍の本土侵攻はそれより2~3カ月後に予定されていました。日本側が降伏を求めて、よりよい降伏文書の文言を模索しているのが分かっていながら、3カ月後に予定していた侵攻をしないために原爆を落としたというのは、どうにも整合性がありません」 (後略)

2015.06.01 (月)  晴れ

 前期中間考査第1日目。1年生の現代文の答案が出る。つけ始めたばかりだが、漢字が出来ていなくてガッカリ。今年の入試は漢字の出来が思わしくなく、まあ問題も難しかったからだろうと思っていたのだが、実は本当に漢字力がないのかも知れない。午後から会議。発疹は徐々によくなりつつあるので、病院に行く暇もないし、このまま様子を見ることに。9219歩。
 日比谷の卒業生である町村議員が亡くなった。日比谷130周年の際、当時自民党幹事長ということでゲストでいらしたが、ウケを狙いが明白な政界ネタのご挨拶に、首をかしげた印象があるのみである。
5D3_0936.jpg(今日のニンニク)
5D3_0942.jpg(3日前のニンニク)