3月

2016.03.30 (水)  晴れ

 27日(日)のところに書いたテーブルの天板は、実はこんな感じだったのである。
IMG_1012.jpg
 さすがに気になるので、クロスをかけたり、ランチョンマットを敷いたりして誤魔化していたのだが、とうとう一大決心をして、シマホに「水性ウレタンニス」と「紙やすり(240番と400番)」と「刷毛」を買いに行って、天板修復作業にとりかかる(旧塗装はがし+紙やすり関係作業=私、ニス塗り関係作業=主人)。
 その結果…
L1020833.jpg
L1020837.jpg
といった感じに仕上がり、「上手く出来たのではないか」「部屋の雰囲気にマッチしているではないか」「カフェではないか」と、夫婦ともども自画自賛(笑)。

 さて、本日をもちまして2015年度版は終了にしたいと思います。今年もご愛顧ありがとうございました。
 2016年度版は、4月2日(土)から開始しようと思っています。またまた同じデザインですが、引き続きお楽しみいただければ幸甚です(アドレスの最後が /2016/ になります)。

2016.03.29 (火)  晴れ

 今日は夫婦とも春休みなので、星乃珈琲でモーニング・セットを食したあと、カタクリの撮影に昭和記念公園に出かける。私は昭和記念公園の年間パスポートまで持っているが、夫婦で訪れるのは初めてかも。
 夜は、大学時代の友人(その内の一人は四浪!なので還暦である…笑)と主人も交えて、渋谷の「トラットリア シチリアーナ ドン・チッチョ」で夕食会。
主人が撮影。ナカナカである)
IMG_2593.jpg

2016.03.28 (月)  雨・晴れ・曇り

 午前中、し残した仕事を片付け、4月に向けて国語科職員室の机回りを一新する。午後から、進学が決まった浪人形が母上と一緒に訪ねてくれる。大学の入学式が4月1日とのことで、新しいスタートが待ち遠しいに違いない。自分のやりたいことを、好きなだけ深めてほしいものである。12606歩。
 実践女子大学の影山輝國先生から、『「論語」と孔子の生涯』(中公叢書)をご献本いただく。「論語」は苦手とするところなので、しっかり勉強いたします。
日比谷の桜も開花が進みつつある)
IMG_2566.jpg

2016.03.27 (日)  晴れ・曇り

 古い家具をもらいうけて、ちょっと部屋の模様替え。結婚以来使いつづけてきた木のテーブルを、丸形のものに換えてみたのである。何となくカフェ?のような感じでよいのだが、さすがに年季が入りすぎていて、天板をかなり手入れしないと微妙な感じである(笑)。

2016.03.26 (土)  晴れ

 午前中に用事を済ませて、午後から豊島園方面に散歩に出かける。残念ながら桜はまだ一分(0.5分?)咲きといった感じで、来週末くらいがちょうど良さそうかも。
PROS0343.jpg
PROS0418.jpg

2016.03.25 (金)  晴れ

 今日は楽しいことが二つ。一つ目は、2年生の男子がハーバード大学の何かに選ばれて、修了式でその記念品の授与があったのだが、そのプレゼンターとして、現在ICUで教鞭をとっている滞日3年目のハーバード大の先生がやって来たこと。さすが日本で教えているだけあって、スピーチも面白くかつ分かりやすかった(国際化とグローバル化の違いについて自分の考えを述べた上で、グローバル化時代を生きる上で大切な3つの姿勢を示していた…説得力はなかったが…笑)。二つ目は、午後からの大職員室の模様替え。新年度に向けて、新たな分掌に合わせた机の配置換えを行ったのである。先生方が全員が集まっての作業は、てんやわんやでありながら、なかなか楽しい作業であった。16267歩。

2016.03.24 (木)  晴れ

 休暇をいただいて、済ませなければならない家の用事を片付ける。8406歩。

2016.03.23 (水)  晴れ

 1・2年生は授業と教科書販売。放課後、成績会議。
 昨日の夜、Apple WATCH のソフトウエア・アップデートしたところ、iPhone と連動したスライドショーを文字盤に表示できるようになった。早速「爺バカ文字盤」にして、時間を確かめるたびにニヤニヤである(笑)。9949歩。
L1020743.jpg
L1020790.jpg

2016.03.22 (火)  晴れ

 2年生は星陵セミナー。今年は、講師の先輩方がかなり入れ替わっていて、それ故今まで以上に「力が入った
」セミナーになったと担当の先生がおっしゃっていた。めでたし、めでたし。8719歩。
 ところで、昨日の引用についてちょっと補足。まっとうな指摘だと思って引用したが、もちろん、私自身も「視線の転換」ができずに「チョー頭悪い」発言をすることはままある。ただ、視線の転換ができていないという指摘を受け、その指摘が納得できるものであるならば、それを素直に受け入れる準備はしているつもりである。頭のイイ偉い人たちが困るのは、素直に受け入れず、なんだかんだと屁理屈をこねる点であろう。頭がイイからいくらでも屁理屈をひねり出し、そしてそこで思考停止に陥ってしまうのである(ちなみに、今年の東大入試現代文第1問の内田樹「反知性主義者たちの肖像」にも同趣旨のことが述べられている…)。指摘を受け入れることは、自らを向上させることでもあろう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」、こんな姿勢でいたいものである(自戒を込めて…)。
 もう一つ、視線の転換といっても、なかなか当事者側の立場に立つのは難しいものである。だから、私は「当事者になって初めて大きな視線の転換をした」というのもアリだと思っている。例えば、強硬に死刑廃止を訴えていた人が、自分の身内を殺されて死刑賛成論者になるといったことも「あり」だと思うのである。原発で恩恵を受けていた町の人が反原発になることだってあるだろうし、尊厳死の在り方に疑問を呈していた人が生体肝移植を受ける事例だってあるかも知れない。そういう視線の転換に対して、「変節」などというレッテルを貼るのではなく、そっと受け入れていく社会がイイのではないかと思うのだが、如何なものか。

2016.03.21 (月)  晴れ

 仕事で学校へ。休日のため、エアコンが効いていない寒い部屋で仕事をしていたせいか、帰宅後、寒気がする感じで体調今一歩。7673歩。
 丸山議員や丸川大臣の発言について、WEB RONZAにおもしろい記事があったので引用しておこう。

「失言」政治家に欠けているのは視線の転換(上)
「同じことを自分について言われたら、どういう気がするか」
三島憲一(大阪大学名誉教授、ドイツ哲学・ドイツ現代政治)
■「奴隷」発言に潜むもの
 「つい100年ほど前まで、ちょんまげに草鞋(わらじ)履いたヤクザがダンビラ振り回していただけで、識字率も低く、英語もまったくだめだった黄色いサルが、宇宙に衛星上げたりしているんだから、日本という国もすごいもんだ」
 もしも、アメリカの上院議員が、公式の場でこういう発言をしたとしたらどうだろう。ムキになって反論する日本の政治家が必ずいるはずだ。
 「そもそも明治から100年でなく、150年も経っている。江戸時代の識字率は相当な高さだった。刀を振り回していたのはヤクザではなく、武士だ。武士は、漢文の素読もやった。そもそも刀を振り回していたのではなく、剣の修業をしていたのだ。剣は武士の魂だ。サルとは、日本に対するとんでもない侮辱だ」などなど。
■「視線の転換」をしてほしかった丸山和也参院議員
 自民党参議院議員の丸山和也氏の「黒人奴隷の血を引く」人が大統領になるなんて、といった発言が物議を醸した。
 本人は反響の大きさに驚いたのか、一旦陳謝したが、あとで、批判は見当違い、アメリカのダイナミックなところを尊敬した発言だったのに、と忿懣(ふんまん)やる方なかったそうだ。
 でも、丸山議員も、日本のちょんまげサムライについて上記のようなことを言われたら、たとえ、それが日本のダイナミックな発展に敬意を表したのだ、と言われても、釈然としないはずだ。
 反撃のダンビラを激しく振り回すかもしれない。
 なぜならこの架空の発言にも、「奴隷」発言と同じに、一抹の軽蔑が潜んでいるからだ。あるいは、そういう匂いが、発言を受けた側として感じ取れるからだ。
■徳目というより知的訓練の問題
 ときとして政治家は自分の「失言」に厳しい反応があったときに「真意」を説いて弁明する。「コンテクストを見て欲しい」、「アメリカへの尊敬の心からだ」などなどと。
 彼らには、拒絶反応が生じる理由がまったくもってわからないようだ。
 これこそ、最初の発言よりも、重要問題だ。どうしてわからないのだろうか。
 単純に言えば、頭脳の訓練が足りないからだ。つまり、同じようなことを自分たちについて言われたら、どういう気がするだろうか、という「視線の転換」の訓練が足りないからだ。
 これは、やさしさとか思いやりとか気配りといった心の徳目の問題ではない。単純な知的訓練の問題だ。向こうから自分たちを見る視線を練習することだ。
 例えば、中国人観光客のマナーの悪さが言われるが、30年前、40年前にヨーロッパでノーキョーの観光団についてなにが言われていたか思い出してみるのも「視線の転換」だ。
 どうも自民党の政治家の発言には、いわゆる「慰安婦問題」に関してであれ、保育園の待機児童の問題に関してであれ、この視線の転換の訓練が根本的に欠けているようだ。
 自分の娘が慰安婦にさせられていたとしたら、自分の孫が待機児童で、そのために母親である自分の娘が仕事を辞めなくてはならないとしたら……。
 まあ、国会議員という高いご身分なら、待機児童といった「パンピー」に起きるような問題はカネで解決できる(「お手伝いさん」を雇えばいい)のだろう。
 したがって、世間でよく言われる表現で身もふたもない言い方をあえて使えば「頭が悪い」のだろう。逆軽蔑になることを覚悟して言うが、ようするに「視線の転換」をする気がないのだろう。
 慰安婦問題について言えば、やられた方はやった方よりずっとよく、そしてずっとずっと長く覚えているとは、西ドイツ(当時)の元首相ヘルムート・シュミット氏がはるか昔に日本の友人への忠告として述べた言葉だが、これも「視線の転換」だ。名宰相の冷徹なリアルポリティクスには、この「視線の転換」が第一原理になっていた。
■追求されるのは「和」ばかり
 「視線の転換」の欠如は相手の権利を認めない政治文化となる。奴隷発言に、あるいは架空の「イエロー・モンキー」発言のように、軽視が公的発言ににじみ出る。どうして反発があるのか、発言者にまったく理解できない。
 ついでに言えば、福島の除染問題について「わーわー」反対する「反放射能派」という言辞を弄した女性の環境大臣もそうだ。名前を挙げるにも値しない。(引用者注:自民党丸川珠代)
 自分の可愛いお子さんを福島で育ててみたらどういうことが気になるだろうか、と問うてみればいい。
 こういう「視線の転換」がなく「わーわー」では、一流大学(引用者注:東京大学)を卒業していても、敢えていえば、「チョー頭が悪い」としかいいようがない。
 相手の権利を認める「視線の転換」のないところで追求されるのは「和」である。今の中国なら「諧(かい)」である。
 どちらも似たようなものだ。自分たちの「権利」ばかり主張しないで、全体の「和」を考えるべきだ、あるいは「諧」を尊重すべきだ、尊重しない奴は「けしからん」ということだ。ここから「国賊」という言葉まではほんの数歩だ。
 不規則発言は自分たちだけに許され、下からのそれは許さない。中国なら警察がやってくる。日本ではもっと巧妙で、それとなくポストから外されて行く。あるいは忖度がはびこる——「和」と「諧」のために。
 騙されないようにしよう。「和」と「諧」は権威主義の別の表現なのだ。

2016.03.20 (日)  晴れ・春分の日

 午前中、お墓参り。午後から、上の孫二人を連れて遊ぶ。「爺バカ日誌」再開近し(笑)。
IMG_2496.jpg

2016.03.19 (土)  雨のち晴れ

 朝のんびり起きて、ゆっくり目の朝食をとりながらBSで「あさが来た」の一週間分を見ていたら、おもしろくて長々と見てしまった。あのドラマは、大学へ行くこと(学ぶこと)や働くこと、人を愛すること、家族を思うことなどについて、現代の私たちが日常の生活の中で忘れてしまっている「基本」みたいなものを描いているのだなと感じた。昔、定時制に勤めていた時は、けっこう朝の連ドラは見ていたのだが(「ちゅらさん」とか「こころ」とか…)、短い中にも毎回イイ場面をいれてあり、それでいて(朝だからか)重くなりすぎないように工夫されていて、かなり素晴らしい番組であると思う。
はるが来た)
PROS0305.jpg

2016.03.18 (金)  晴れ

 午前中、4月からドイツ・ケルン大学に留学する卒業生がやってくる。脳について研究しているのだそうである。日比谷の生徒だった時は結構ユニークな生徒であったが(←これでもかなりな婉曲表現…笑)、すっかり立派になっていて感心である。よい成果が得られることを期待したい。
 5時間目の1年生の授業に、鹿児島県の県立高校の先生(実は福島県立高校の先生)が見学にいらっしゃる。授業では今年の東大の第2問を使って、2年生になってからの古文学習の勘所みたいなものを伝えたが、現代文の授業をしているクラスなので、いつもとは違う反応でおもしろかった。授業の後、見学してくださった先生のご質問にお答えしたが、ご自分の学校での授業について本当に真剣こ考えていることがよく分かり、私のようなイイカゲンな者がお答えしてもあまり得るところがなかったのではないかと危惧される。前回、地方から見学にいらしてくださった先生も大変まじめな方で、いやはや、こんなことでよいのかと、かえって反省させられる感じである…とはいっても、もはや反省のしがいもないだろうなぁ(笑)。10722歩。

2016.03.17 (木)  晴れ

 新入生の書類提出日。木曜日は授業がないので、いろいろお手伝いする。10685歩。

2016.03.16 (水)  晴れ

 球技大会第2日目。合間に、入試答案の相互点検ということで、国語科全員で都立A高校の国語入試答案を点検する。
 夜、昨春卒業したクラスの集まりが予定されていて、その前に合格が決まった浪人形と、春休みを迎えた東大生二人が顔を見せてくれる。浪人形は新しい生活に向けての準備が着々のようだし、現役東大生諸君もしっかり単位を取得した上で新年に向けての準備を進めているようで何よりである。自分の夢の実現に向けて、つかみ取った環境をフルに活用し、さらに成長してほしいものである。10234歩。
 写真好きな人と話していたら、「シュート」と「スナップ」があるとのこと。調べてみたら、下のような記事があった(Fuji-X Pro2)。ふむふむ。

 撮影のことを”Shoot(=狙い撃つ)”と表現することがあるが、これは100%の視野率を持つ一眼レフ的な撮り方と言える。見えるものをキチンと狙い通り撮るという感じだろうか。
 これに対し、素通し式のファインダーは、”Snap(=切り取る)”と表現するのが相応しい。フレームの中にあるもの外にあるものを俯瞰的に認識しつつ、それらの構成要素がどうなるのかを予想しながら、タイミングを見計らって”切り取る”という撮り方である。

 自分は「シュート」中心であるが、これからは「スナップ」にも挑戦してみたい。

2016.03.15 (火)  晴れ

 球技大会第1日目。担任クラスもないので、午後から河合塾の「東大・一橋入試問題分析報告会」に出かける。今年の東大・一橋の現代文問題では、東大の第4問が難しかったので、その解説を聞きたかったのだが、現代文担当の女性講師には解説する力がないのか、はたまたあの問題を解説してしまうと河合塾の手の内を明かすことになるからなのか、その問題にはほとんど触れることがなくて期待外れであった。一方、古典の解説では、誤答例の紹介とともに、どうしてそのような誤答が生まれたのかに関する解説もあって参考になった。ちなみに、東大の第4問については、是非とも東大に模範解答例を示してほしいものである。10221歩。

2016.03.14 (月)  雨

 宅浪をしていた浪人形から受験結果の葉書が届いたりして、結局東大は53名(現役27名、浪人26名)に。医学部の数字も浪人形からの報告とともに伸び続けていて、今年これだけの数字が出てしまうと、来年は(色々な意味で)厳しいだろうなぁ…(笑)。9784歩。

2016.03.13 (日)  曇り

 家の用事をして過ごす。アメリカの大統領選挙、どうなることやら…。

2016.03.12 (土)  晴れ

 今日から国公立大学の後期試験である。前期で思い通りの結果が残せなかった諸君が挑戦している。浪人形で小論文の指導を最後まで頑張った人もいる。イイ結果が出ることを期待したい。
XT1A2877.jpg

2016.03.11 (金)  晴れ・曇り

 震災から5年、早いものである。一昨日も引用したが、朝日新聞の特集には考えさせられる。購読されていない方は、ぜひ図書室などで読むとよいだろう。また、デジタル版の方には、被災地の①かつての写真 ②震災直後の写真、③現在の写真 が比べられるようになっているコーナーがあるのだが、かつでの美しい風景に比べると、③現在の写真は「巨大な防波堤とコンクリートばかり」といった印象で悲しくなる。これで本当の復興といえるのだろうか…というのが正直な感想である。
 さて、昨日学校にいなかったということで、改めて受験結果の報告にたくさんの浪人形諸君がやって来てくれる。悔しさの残る結果の人も中にはいるが、それぞれに自分の進路を選びとったようである。結局東大は51名(文系21名、理系30名)という結果に。旧35Rからは結局6名が合格し、現役3名と合わせるとなんと計9名! いやはや、学年で一番優秀なクラスであった…のかも知れない(笑)。ちなみに、東工大は7名、一橋16名、京大9名、国公立医学部31名、私立医学部24名というのが今日の判明分である。宅浪人形で連絡が来ていない者もいるので、もう少し増えるかも知れない。立派な結果である。10377歩。

2016.03.10 (木)  曇り・晴れ

 2年生は今日から修学旅行で京都へ。
 私は出張日なので正確なところは分からないが、東大は、現役24、浪人22の計46名(文系16名、理系30名)だったらしい(その後、49名というメールもいただいているが…)。とにかく、過去最高の数字ではあるので、とりあえずめでたいといったところか。(私のクラスの浪人形は4名合格。おめでとう!) 9480歩。

2016.03.09 (水)  曇り・雨

 卒業式、無事終了。ただし、添削指導をした生徒で、合格の報告に来ない者が複数いて腹立たしい。今年は医学部・看護学部志望者の添削担当だったので、そういう者が将来医者になるのかと思うと……である。
 昨日の朝日新聞オピニオン欄は「(東日本大震災5年)私たちは変わったのか:記憶と忘却」という特集で、3人の論考が掲載されていたが、どれも読み応えのあるものであった。その中で、心療内科医の桑山紀彦さんのものを引用する。

■「あの日」語ることで次へ   桑山紀彦さん(心療内科医)
 あの日、仙台の南にある宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区では、約2200世帯のうち700人あまりが亡くなりました。震災後、地元にクリニックを構える心療内科医として約800人の患者さんを診てきましたが、5年がすぎてもなお、心の中では「あの日」のまま止まっている人たちが少なくない。それが気がかりです。
 人間は忘れる生き物というけれど、あれほどの体験を忘れられるはずがない。悲しみや悔いを封じたままでは、心の傷は癒やされません。それどころか、つらい記憶にさいなまれ続けることになる。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を薬で治すことはできない。
 重要なのは、記憶に支配されるのではなく、記憶を支配できるようになることです。そのために必要なのは、語ること。語って現実と向き合うこと。私が取り組んできた心理社会的ケアというアプローチを紹介しましょう。
 震災から半年後、地元で手芸教室を始めました。全員が家を流され、家族を亡くした人もいる。先生も被災者です。彼女たちは編み棒を動かしながら、ポツリポツリと「あの日」のことを語り、次第に胸の内を吐き出すようになりました。家族でも、友人でもいい。まずは語り、聞いてもらう。それが第1ステージです。
 トラウマの特徴は断片の記憶しかないことです。たとえば、津波警報を聞いた。中学校に逃げた。仮設のアパートに入った。順番をふるとA、C、E。BとDの記憶が抜け落ちています。連続性がないので、それぞれの記憶は切り立ったまま。すると津波警報のサイレンの夢を見たり、暗闇の中学校で人々が泣き叫ぶ光景がフラッシュバックしたりする。
 でも、体験を語り、現場に足を運んだりするうちに、欠落していたBやDの記憶を埋めることができる。同時に、自分を守るため無意識に切り離していた感情もよみがえる。そうやって記憶に感情が伴い、つながり、物語が完成すると、記憶は角が取れて丸くなり、心の引き出しの中にすっぽりと収まるのです。もう苦しむことはありません。つらい記憶を自分で出し入れできるよう、記憶を整えるのが第2ステージです。
 手芸教室を始めて数カ月後、女性たちは「閖上あみーず」というサークルを立ち上げ、7色の台所用タワシを作り始めました。「虹色たわし」は評判を呼び、1万個以上売れた。自分たちの手で生みだした商品が誰かの役に立つんだと実感できると、負の記憶が正の遺産に変わる。第3ステージ、「社会的再結合」と呼ばれる瞬間です。そうすれば、失ったものの違いから悲しみを比べて傷つけ合うようなこともなくなります。
 メンバーの中には「語り部」になった人もいます。息子や娘を亡くした母親が学校を訪ね、津波の恐ろしさやいのちの大切さを説いて歩く。サバイバー(生還者)がサポーター(支援者)になり、生きる意味を見つけたのです。
 語る言葉を持たない子どもたちには表現してもらう。2次元の描画、3次元のジオラマ、そして音楽や映画製作などを通じて思いを吐き出させると、その過程で自然と語りが生まれるのです。
 これまで、大地震の起きたイランやパキスタン、大津波にあったインドネシアのほか、戦下にあるアフガニスタンやパレスチナなどで支援活動を続けてきました。このアプローチは世界40カ国以上で成果を上げてきました。
 ただ、日本では、語ることの価値が十分に認められていません。いまだに「そっとしておこう」という空気さえある。でも、切り立った記憶をそのまま放っておいたら、刃のように心を傷つけ続けます。語ることで記憶を紡ぎ、記憶を整える。それができれば、次の一歩を踏み出せるはずです。
 いま気がかりなのは口を閉ざしたままのお父さんたちです。「閖上の記憶」という語り場をNPO法人で運営しています。パチンコに向かう途中にでも足を向けてくれれば、と願っています。

2016.03.08 (火)  晴れ

 午前中授業で、午後から1年生は卒業式の準備、2年生は修学旅行に向けたオリエンテーション。ノドは今一つだが、今日もうれしい合格の報告に「元気をもらう」(←繰り返すが、かなり嫌いな表現である…)。一橋大や千葉大医学部、横浜市立大医学部、浜松医大などの合格の報が続々と届く。現役生の合格者数も合わせると、国公立大医学部の合格者数は過去最高になるかも知れない。慶応の医学部に受かっている生徒もいるし、なかなか大したものである。9399歩。

2016.03.07 (月)  雨・曇り

 昨日の頭痛はどうも風邪らしく、今日になってノドも痛くなってきた。模擬面接と小論文指導の予定があるのでイヤイヤ学校に出かけたが(笑)、いくつかの国立大学前期試験の合格発表がある日で、合格が決まりうれしそうにしている生徒諸君から「元気をもらった」(←かなり嫌いな表現である…)感じである。論文を見ていた現役生からは筑波の医学部合格の連絡が、また、浪人形からも北海道大の医学部や総合理系、名古屋市立大学医学部、横国大の合格の報などがたくさん届く。おめでとう。浪人形諸君は、結果通知の葉書の方もよろしくお願いいたします。9539歩。

2016.03.06 (日)  曇り

 頭痛の一日。我慢しながら、午前中に確定申告の書類を作る。午後ダウン。やれやれ。
 朝日新聞GLOBEが「入試とエリート」という特集で面白かった。最近、成績のイイ生徒は東大ではなく医学部に行く傾向があるという指摘は、日比谷にも当てはまる。ところで、東大とハーバード大などが採り上げられていたが、入試の比較を論じたコーナーに出ていた「点数主義の方が多様」(芦田宏直(人間環境大副学長))を引用してみよう。 

 常識的に考えれば「点数主義の入試よりも人物主義の入試の方が、画一的ではない多様な学生を選抜できる」と思いがちです。でも、本当にそうでしょうか。
 人物主義のハーバードは多様性を目指していますが、選抜される学生は圧倒的に富裕層が多い。大変高い基礎学力も前提になっています。点数主義の東大の学生も高所得家庭の出身者が多いが、ハーバードに比べればずっと多様な所得層から入学しています。ハーバードの多様性とは、富裕層と高い学力という画一性の上に振りかけられるスパイスに過ぎないのではないでしょうか。
 なぜそうなるのか。「人物をみる入試」とは実は「本人の努力が届かない、育ってきた環境も含めて人を評価する」という選抜方法だからです。
 面接で初対面の人に好感を与えたり、気の利いたスピーチをしたりする能力は、本人の意思や努力や先生の教育よりも、家庭や周囲の環境に左右されます。人物本位とは「育ちの良さ」を見ることの言い換えでしかありません。
 一方、国語や社会など主要教科の学習は、経済格差や家庭文化の影響を最小化し、本人の努力が反映されやすい。教科書で勉強できるし、社会的な親とも言える図書館も無料で利用できます。それに比べ、美術や音楽は「育ち」の影響を強く受ける。
 相対的に環境に影響されにくい主要教科について、ペーパーテストという公平な競争を行うことで、次世代のリーダー候補を選抜する。それによって世代ごとに階層がある程度シャッフルされ、欧米に比べ平等な社会が実現した。人物本位の入試になればシャッフル機能は失われ、階層の固定化が一層進むでしょう。
 今、大学に必要なのは、入試改革の前に「どんな人材を育てるのか」という目標を定め、それを実現するカリキュラムや教員体制を作り上げることです。今の大学、特に文系の学部はバラバラの概論科目や選択科目ばかりで、各科目が有機的につながり、積み上げられていく一貫性のあるカリキュラムが存在しません。
 職業教育でも教養教育でもいい。明確な目標を持った積み上げ式の厳密なカリキュラムをつくり、学生を4年間かけて徹底的に鍛え上げる。それによって初めて、学生の中に学ぶ意欲や主体性が形成される。入学前の学生に完全な主体性を求めるのは本末転倒です。
 「どんな学生を育てるか」という目標とカリキュラムが定まって初めて「学校の方針に合う入学者をどう選抜するか」という入試の議論が可能となるのです。

 極めてまっとうな意見であるが、それが実現できていないところが大学教育の問題点なのだろう。
PROS0034.jpg

2016.03.05 (土)  晴れ・曇り

 今週のTOP PAGE に使っている河津桜とメジロの写真は、FUJI-X Pro2 + XF100-400mm で撮影。昔ならチョロチョロ飛び回る小さなメジロを、ミラーレスの FUJI で捉えることは至難の業だったが、今やAFがすっかり向上していて、ご覧の通りの結果である。もちろん、まだ CANON に比べるとストレスを感じる場面がないとは言えないが、ほぼ万能選手になったと言えるだろう。
PROS0220.jpg

2016.03.04 (金)  晴れ

 後期期末考査第4日目。午前中、国立後期を受ける(かも知れない)浪人形の女子2名が、小論文の添削をもってやってくる。午後から、同じく後期を受ける(かも知れない)現役生の模擬面接。その後、男子の浪人形6名が遊びにやってくる。全員、早慶のどちらかには合格していて、とりあえず2浪はなさそうだとのこと、何よりである。前期の発表が楽しみである。14475歩。

2016.03.03 (木)  晴れ

 後期期末考査第3日目。1年生の現代文の答案が出る。早速採点を始めたが、まずまずの出来である。ちなみに今日は雛祭りだが、我が家は特に変わったこともなし(笑)。12402歩。
妹で遊ぶ…ではなく、可愛がる姉たち)
L1020582.jpg

2016.03.02 (水)  晴れ

 後期期末考査第2日目。学力選抜の合格発表日。推薦の時と同じで、前の学年で担任をしていた生徒の妹さんが合格しており、これまためでたい限りである。10701歩。
XT1A2795.jpg

2016.03.01 (火)  晴れ

 後期期末考査第1日目。あさってまで答案が出ないので、何となく余裕。後期試験を目指す諸君(浪人形からも頼まれているのである…)の小論文の添削。10360歩。
 今読んでいる『「和食」って何?』(阿古真理、ちくまプリマー新書、2015)が結構面白い。筆者が自分の育った昭和の食卓を振り返りながら、洋食が私たちの生活に根づいていく過程を述べた章での、「そんなふうに、主婦たちが手をかけた料理はおいしかった。だから、昭和に流行った洋食は、お店で買ったり外食してでも食べ続けられる料理になったのですね。」(p73)といった一節には、同じような時代を子どもとして過ごした身として(つまり、主婦としての母の料理を食べて育った身として)、しみじみと感動するのである。