8月

2016.08.31(水) 晴れ

 1日の始業に備えて出校し、宿題テストや授業、期末考査の準備などを進める。昼寝したせいで昨晩よく眠れなかったからか、午後からはあくびとの戦いであった(笑)。7173歩。
 ちなみに、昨晩の「We stayed」(スライドショーは「こちら」)公開にともなって、何人かの方々から「どのホテル?」とのお問い合わせを頂いたが、
 ①ポジターノ2泊が「カーザ・アルベルティーナ」(http://www.casalbertina.it/)
 ②ナポリ2泊が「ホテル・パラディーゾ」(http://www.hotelparadisonapoli.it/)
 ③シエナ3泊が「パラッツォ・ラヴィッツァ」(http://www.palazzoravizza.it)
である。どのホテルも絶景が眺められるにもかかわらず、リーズナブルなお値段。特に、シエナのホテルは2回目だが、古い建物を改装しただけあって落ち着いたイイ雰囲気であり、今回泊まった5階の屋根裏部屋は、部屋の中に約5メートルの廊下があるという面白い構造で楽しかった。

2016.08.30(火) 曇り・雨

 日常生活への復帰に向けて(笑)少しずつ準備する。夏休み中、初めて本格的な?昼寝をする。
 久しぶりにじっくり読んだ新聞に面白い記事があったので引用。

(異議あり)「縄文時代」はつくられた幻想に過ぎない
                        考古学と社会の関わりを研究する山田康弘さん
■「貧しい」「自然と共生・平等」…世相映してイメージ180度変化
――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。
 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」
 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展段階説』に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化から農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになりました。『縄文』『弥生』の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味では政治的な理由で導入され、決められたんです」
――敗戦がきっかけで「つくられた」わけですか。
 「ただ、まだ『縄文時代』『弥生時代』ではなかった。変化が起きたのは1950年代後半です」
 「1947年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺跡の発掘調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見されました。弥生式文化の範囲も、西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきます。その段階で『弥生時代』という言葉が出てくるんです。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代へという道筋で、日本の歴史が語られるようになります」
     *
――なぜ「文化」から「時代」になったのでしょう。
 「50年代は、戦後の日本が講和条約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期です。それと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別に、日本独自の時代区分が求められたのだと思います」
 「『弥生時代』は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村という、非常にポジティブなイメージとともに広まりました。戦後まもない頃の日本人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見たんです。その一方で、裏表の関係にある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった」
――縄文はネガティブに見られていたわけですね。
 「当時の日本人にとって、縄文時代は『戦前』のようなものだったと思います。『克服されなくてはいけない時代』だったんです」
 「しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わります。縄文は貧しいどころか、豊かな時代だったという見方が出てくるんです」
――なぜ見方が百八十度変わったのですか。
 「国土の開発が盛んになり、大規模な発掘調査が数多く行われました。縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀(わん)などが続々と見つかり、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。一方で、弥生時代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかってきます。『縄文は遅れていた』『弥生は平和』というイメージが崩れてきたんです」
 「もう一つの要因は、70年代の世相です。高度成長も終わって、一息つく時期になる。公害などが社会問題化して、現代社会への懐疑も高まっていました。その中で、旧国鉄の旅行キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』がブームになります。社会がアメリカ化されてきた反動で、日本の原点とは何かを探すようになった」
――それがなぜ縄文とつながったのでしょうか。
 「『縄文ポピュリズム』の影響もあったと思います。その代表が芸術家の岡本太郎で、50年代に縄文土器を美として『発見』し、日本文化の基底にあるものとして縄文を新しく提示してみせた。岡本たちの『縄文ポピュリズム』が、70年代のオカルトブームや『ディスカバー・ジャパン』的な空気と結びついて、縄文ブームが起きます。呪術を行う一方で、工芸など高い文化を持ち、みんなが平等で、自然と共生していたユートピアとして、縄文が描かれるようになった」
――弥生に代わり、縄文が理想の社会にされたと。
 「ところが90年代になると、『縄文階層社会論』が盛んになります。青森県の三内丸山遺跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなかったはずだという見方が出てきた。平等社会というイメージに疑問符が投げかけられたんです。バブル崩壊後、格差や社会の階層化が問題になった時期で、縄文時代ですら階層があったという話に安易に乗る人も出てきてしまった」
 「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです」
     *
――実際の縄文の姿とはかなり違っているのですか。
 「研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文の枠組み自体が揺らいでいます。豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている」
 「縄文といっても地域によって大きく違います。中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山遺跡のような大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもない。同じ時期に様々な地域文化が併存している。縄文文化は『日本国の歴史』という視点からの総称にすぎません」
――とはいえ、「縄文時代」が存在したことに変わりはないのでは。
 「縄文時代や弥生時代という大きな枠組みを設定すること自体はいいんですが、時期や地域によってかなり違いがあることを前提にすべきです。しかし『縄文より弥生のほうが優れている』とする進歩史観や、『縄文こそロハスなユートピア』という考え方がいまだに根強くあるために、その多様性の価値を認めようとしない人が多い」
――「縄文幻想」から脱するには、何が必要ですか。
 「どんな時代も、過度に美化しないことです。縄文人は自然と共生していたと言われますが、集落をつくるために森を焼き払ってもいる。人口が全体で20万人と非常に少なかったので、多少自然を破壊しても再生されていたにすぎないとも考えられます」
 「縄文に限らず、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣をつけるのは、様々な意味で危険です。『縄文は遅れていた』『縄文はすばらしかった』と簡単に言ってしまうのではなく、多様な面をもっと知ってほしいですね」

2016.08.29(月) 曇り・雨

 昨夜、無事帰国。18:45分くらいに羽田の到着口ゲートを出たら、ちょうど19時発の練馬行リムジンバスがあって、雨も降っていたことを考えるとラッキーであった。
 ちなみに、旅行中のイタリアで地震があったが、ナポリ滞在中で、心配してくれた何人かの方々からのメールでその被害を知る始末。ちょうどフィレンツェを経由してシエナに移動する日であったが、交通機関への影響を直接受けることもなく、個人的には大きな影響はなかった。
 今回の旅行での思い出の地ベスト3は、①ラベッロ ②ナポリ ③モンテプルチアーノ であろうか。どこも素晴らしかった。特に、ナポリはひどい(危険な)都市だと聞いていたので緊張していたが、丸一日、約30000歩にも及ぶ街歩きをしたが、特に危険な目にあうこともなく、美しい街並みと汚い街並みの両方を楽しめた。やはり「ナポリを見てから死ね」である。とにかく、一度も雨に降られることなく、美味しい食事と美しい景色を堪能できた。
 一方、公共交通機関のいい加減さ(良い意味でも悪い意味でも…)や、シエスタで目当ての店に入れなかったり、(公共バスがダメなのに)タクシーが都市部以外ではなかったり、(自動販売機は当然としても)ちょっとした買い物ができるコンビニがなかったりするなど、日本の便利でキチッとしたサービスに慣れきっている(年寄りの)身としては、イタリア語の出来る友人がいなければ、自分独自の旅をこなすのは、なかなかハードルが高い国であるとも感じた。
 今日は、片道約14時間(羽田←→パリが12時間弱、パリ←→ナポリ・フィレンツェが約2時間弱)の飛行で固まった身体をほぐしてもらいにいったり、写真を整理したりして過ごす。素晴らしい景色に圧倒されて、あまりイイ写真が撮れなかったのは残念無念…(泣・笑)。
ITA00694.jpg(ラベッロ)
IT160383.jpg(ナポリ)
ITA01203.jpg(モンテプルチアーノ)

2016.08.19(金) 晴れ

 高・松、スゴイ! 沙保里、残念…。
 では、夏休みのバカンスに(←古い…)出かけてきます。アマルフィ(ポジターノ、ラベッロ)からナポリ(ポンペイ)、フィレンツェを観光して、シエナ(モンテプルチアーノ、ピエンツァ)あたりでのんびりしてきます。29日まで更新できませんが、悪しからず。

2016.08.18(木) 曇り・雨

 遊びに出かけようかと思っていたが、天候不順で諦める。明日からの旅行に備えて、荷造りしたり、情報を調べたりして過ごす。
 旅行は、2012年に一緒にイタリアに出かけた仲間(私たち夫婦と、私の大学時代の友人2名の計4名)と、またまたイタリア旅行である。今回の2大テーマは「アマルフィとトスカーナ」で、下の雑誌に出ているところをおおよそ回る予定である。どんな風景に出会って、どんな写真が撮れるのか、楽しみである。
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2016.08.17(水) 晴れ

 元同僚の旦那様のお通夜に参列する。こんな席では何だが、懐かしい顔と再会することができて、通夜の後、誘い合わせて旧交を温める。

2016.08.16(火) 晴れ→曇り→雨

 台風接近中。
 夏休みになってから、夫婦ともに平日に休めたのが昨日に続いて今日で2日目。これから教員になろうと考えている諸君、夏休みでも教員は結構忙しいのである(泣)。ということで、二人で相談しながらこなさなければならない(しかも、平日にしかできない)家の用事を色々と済ませる。ちなみに、区役所に「マイ・ナンバー」カードを受け取りに行ったりしてきた。あとは、金曜日からの旅行に備えて、買い物や準備など。
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2016.08.15(月) 終戦の日 晴れ・曇り

 お泊まり会2日目。好きなだけ寝かせおこうと思ったが、姉が6時半くらいに起床したので、妹も7時に起こして、お腹を減らせるための?朝の散歩へ。涼しくて気持ちよかった。帰宅後、朝食(ホットドッグとサラダ)。ちょっと遊んで、今日は「ファインディング・ドリー」を観に出かける。う~ん、ちょっと話の展開がまだるっこしい印象(まあ、ドリーの設定がああだから仕方ないが…)。帰宅後、昼食(冷やし中華)。オヤツも食べて玄関前プール。雨が降ったりしたが、ちょうど屋根があるところなので、蚊との戦いを別にすれば(笑)それなりに楽しめた。その後、みんなで買い物に出かけ、夜は大好きな鉄板焼き。ということで、あっという間の2日間である。姉はもうすっかりマイペースだが、妹の方は姉にうまくやられて腹を立てる場面も。悲しい気持ちをじーじ、ばーばには素直に打ち明けることができず、さすがに2日目の夕方にはたまるものがあったのか大泣きしたが、鉄板焼きで機嫌回復。終わり良ければ全てよしである。
6:00a.m. 死んだふりをしているのではなく、本当に寝相が悪い…笑)
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2016.08.14(日) 曇り・晴れ

 今日は上の孫2人の「お泊まり会」ということで、おとーさん・おかーさんから離れて我が家に泊まりにやってくる。先ずは豊島園のプールに出かけ、夕方、としまえんシネマで「ルドルフとイッパイアッテナ」を見る。その後、かっぱ寿司に出かけ、帰宅後花火。昼寝をしていないので、すっかり疲れて(じーじ、ばーばも…笑)10時消灯。
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2016.08.13(土) 晴れ

 明日からの夏休み本番?に備えて、家でしなければならないことを済ませる。

2016.08.12(金) 晴れ

 夏期講習5コマも無事?終了。あ~明日から夏休みだ! 実は、今年はバスケ部の合宿引率が急遽なくなったこともあり、7月後半にも休みが取れた(その代わり何の予定も立てていなかったので、家で仕事していた…)のだが、当初予定では、7月21~25臨海、26~30合宿、8月1~12講習ということで、今日までがお仕事だったのである。まあ、どちらにしろ、これから2週間は夏休みである! のんびりしよう。7460歩。
 リオでは、女子バスケも頑張っているようだが、銅メダルに輝いた卓球の水谷選手がスゴかった~~~。相手もスゴかったからか、ラリーが延々と続いて見応えがあった。感動!
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2016.08.11(木) 山の日・晴れ

 山の日だが、それとは全く関係なく家で録りためたWOWOWの映画などを見て過ごす。
 オリンピックでは、カヌー・スラロームでアジア初のメダリストとなった羽根田選手が、感極まって涙を流し、それを他国の選手が祝福する場面がとても感動的であった。

2016.08.10(水) 晴れ

 午前中2コマの講習の後、午後から「小学生対象学校説明会」ということで、17組の児童+保護者の皆さまに約40分の体験授業を行う。一昨年来行っている「漢字の力」という授業で、小学校で勉強している漢字が、将来の学問にどれだけ結びついていくのかということを、問題を解きながら実際に体験してもらうものである。親子で頭を悩ませる場面もあり、毎年それなりに好評である。今年参加された皆さんも、ぜひ漢字学習に興味を持っていただければよいのだが。11987歩。

2016.08.09(火) 長崎原爆の日・晴れ

 今日は暑かった~…が、男子体操「金」ニュースからの朝なので、気分は上々? 部活の指導に訪れた卒業生が、練習前にわざわざ顔を出してくれる。勉強とともに学生生活も存分に楽しんでいるようで何よりである。
 午後から休暇をいただき、実家の家族とお墓参りに。お施餓鬼でお寺さんに塔婆を頼んでおいたので、それを受け取って供えてきたのである。ただし、あまりの暑さで高齢の母は自宅待機。いやはや、本当に日本は熱帯化している感じである。10581歩。

2016.08.08(月) 晴れ

 夏期講習の第2週目。内容は先週と同じなので、多少余裕あり。
 午後、星陵祭の準備をしている教室を覗いたら、生徒が集まってケータイを覗いている。劇のビデオでも見て研究しているのかと思ったら、なんと陛下のビデオメッセージ。へ~ぇという感じである。ちなみに、私は生前退位は認めない方向がよいと思う。認めない現行ルールの淵源を知らない脳天気な我々世代が、お一人のお気持ちでそれを変えてしまうことには慎重であるべきであろう。天皇はご自分の行事遂行能力などをご心配のようだが、天皇は国民の総意に基づくのだから、高齢化した国民の総意で、天皇が間違っても大笑いして済ませることにすればイイのだし、海外などでどうしても間違えられない場合は、摂政(と、元外交官の妻)が代行すればイイだけの話である。すべて自分でやろうとするお考えを改めた方がよかろう。ついでに、殯に関わる家族の心労についてだが、これは美智子妃が担わざるを得ないことである。ご家族を思いやるお気持ちも分からないではないが、それも天皇家のお仕事の一つであろう。
 夜、訪ねてきてくれた卒業生と、赤坂見附の国語科御用達イタリアン「マルーモ」で会食。本当に日比谷の卒業生は立派である。10610歩。
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2016.08.07(日) 晴れ

 久しぶりに主人の実家の家族と息子の家族が集まる。主役となるはずの一番下の妹が体調不良で欠席だったのは残念だったが、上の二人は玄関先の即席プールで大喜び。炎天下のもと、笑顔溢れる一日となる。
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2016.08.06(土) 広島原爆の日 晴れ

 庭の草むしりをして、腰に来る(泣)。
 子ども代表の挨拶では、オバマ大統領のことが触れられていなかったが、「時事ネタはダメ」みたいなルールがあるのだろうか。でなければ、子どもたちがあの訪問をどのように受け止めたのか、ぜひ今年の挨拶に入れた方がよかったのではないかと思うのだが、如何なものか。

2016.08.05(金) 晴れ

 講習の一週目も無事終了。小論文は、慶応(経)の問題を60分で書かせて仕上げとする。午後の3年生の古文は、センター演習の方は、人数も少なく静かな生徒が多かったせいか、今一つ盛り上がりに欠ける印象であったが、東大演習の方は、積極的な生徒が多くて楽しかった。それぞれ今後の勉強に結びついてくれることを期待したい。14481歩。

2016.08.04(木) 晴れ

 same as yesterday….小論文は、慶応(文)の問題に挑戦。7683歩。
 ところで、気になる記事があったので引用しておこう。(朝日新聞より)

「選挙運動の形したヘイトスピーチ」 都知事選巡り課題
 先月の東京都知事選には、外国人排斥を訴える街頭宣伝を繰り返してきた団体の前会長が立候補し、在日コリアンについて「日本から出て行け」などと主張した。公職選挙法に基づく選挙運動として公然と行われる排外的な言論とどう向き合うか。6月に施行されたばかりのヘイトスピーチ対策法との関係も含め、課題が残された。
 都知事選が告示された7月14日、豊島区のJR巣鴨駅前。選挙カーの上に立った男性候補が、マイクを握って声を張り上げた。
 「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい。遠慮なく日本から出て行けと言っているんですよ」
 この候補は桜井誠氏(44)。在日コリアンらに対する排外的な演説を街頭で続けてきた「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の前会長だ。
 外国人への生活保護支給の廃止や、都内での韓国学校建設計画の中止などを公約に掲げて立候補。翌15日は、港区の在日本大韓民国民団(民団)前で、「韓国へ帰れ」「さっさと日本から出て行け」と演説した。
 在特会については、京都市内の朝鮮学校前で行った街宣を「人種差別」として損害賠償を命じた判決が、最高裁で2014年に確定している。桜井氏が都内の朝鮮大学校前で行った街宣についても、法務省が昨年、「人権侵害」と認定。今年5月のヘイトスピーチ対策法の成立につながった。
 17日間の選挙期間中、桜井氏は都内各地を巡り、駅前などで演説を繰り広げた。陣営や支援者は、その様子を積極的にSNSやネット動画などで配信。投票の結果、候補21人中5番目の11万票超を獲得した。
 陣営側は「独自の選挙運動で一定の票を獲得できることを証明した」とみており、来年に予定される都議選をめざす構えだ。自身に投げかけられる「ヘイトスピーチ」という批判について、桜井氏は「日本に牙をむく外国人に反撃しているだけ」と反論している。
 「日本から出て行け」と街宣をされた民団の機関紙「民団新聞」の裵哲恩(ペーチョルン)副局長は11万という得票について、「驚きだ。五輪を開こうという国際都市で、差別を支持する都民がこんなにいるとは」と語る。「選挙権のない私たち在日の施設前で演説するなんて、選挙運動の形を借りたヘイトスピーチにほかならない」
■「選挙妨害」を懸念、抗議控える
 候補者が選挙運動で自由に主張を訴え、競い合うのが民主主義の基本だ。
 公選法は政見放送については、他人の名誉を傷つけるなど「品位を損なう言動をしてはならない」と定めているものの、街頭演説については「内容を制限する規定はない」(総務省選挙課)。むしろ、候補者の集会や演説など選挙運動を妨害する行為に対して罰則を定めている。
 在特会などの街宣に対してはこれまで、差別に反対する市民グループが現場に集まり、抗議活動を展開してきた。ヘイトスピーチ対策法の成立を受け、川崎市では在日コリアンが多く暮らす地域でのデモを裁判所が差し止めた。だが、都知事選ではこうした抗議の動きは目立たなかった。
 抗議グループのメンバーは、「差別的な言動を止めようという行為が、相手が候補者なら『選挙妨害』となりかねない」と距離を置いた理由を説明する。選挙の自由を保障する公選法が結果として、ヘイトスピーチ対策法が解消をめざす差別的言動を許しかねない状況になっている。
 ヘイトスピーチ問題に詳しい師岡康子弁護士は「人種差別撤廃条約に沿えば、選挙運動においても差別的言動は許されない。人権侵犯の申し立てがあったら、法務省には事実関係の認定や勧告などの迅速な対応が求められる。選挙運動に名を借りた差別的街宣への対策が必要だ」と指摘。そのうえで、「選挙運動は、民主主義の基礎となる『政治活動の自由』という重要な権利の一端。法整備の際は、独立した専門的機関を設け、表現規制の乱用につながらないように点検することも大切だ」と語る。

 そう、つまり「自由の濫用」の問題である。かつてある写真家がヌード写真を摘発された際、「芸術における表現の自由」ということを訴えていたが、その写真家の写真にお世話になった身としては(笑)、それは芸術でも何でもなく、単なるポルノであることは明かであった。そもそも問題となった写真群は男性誌に掲載されていたわけだし、その写真家が芸術家であると認定している人はほとんどいなかったはずである。もちろん、芸術家だけが芸術に携わる資格があるなどと偏狭なことを言いたいのではなく、ふさわしくない行為を行っておきながら、いきなり「表現の自由」などと主張することはどうなのか…ということである。この問題も同じことであろう。自由とは何なのか、真剣に考えるべき課題として提起されているのである。

2016.08.03(水) 曇り・雨

 same as yesterday…. ちなみに、1年生の小論文のテーマは「コンピュータに取って代わられない職業とは?」(香川大、工学部・後期)。今日もクタクタである。7745歩。

2016.08.02(火) 雨・曇り

 夏期講習。さすがに3コマは疲れるなぁ~。1年生の小論文は、パラリンピックの話題を採り上げた新聞記事をもとに、障碍者に関する我々の意識の問題を採り上げる。小人数だが、意見が活発に発表されて面白かった。午後からは3年生向けの古文講座。東大の過去問演習の講座では、記述式問題なので、解答のまとめ方に関するこれまた活発な意見が交換されて、なかなかやりがいのある楽しい講座となった。8052歩。

2016.08.01(月) 曇り・晴れ

 今日から来週にかけて夏期講習であるが、来週11日(木)が「山の日」でお休みのため、今週も今日は準備日ということにして、実際は明日から4日間で実施することにした。ただし、午前中が1年生の小論文講座、午後から3年生のセンター古文演習+東大古文演習と、1日に合計3講座も担当することにしたので、その準備がかなり大変である。下調べとともに、教材の印刷もしなければならず、今日は一日それでつぶれる。8365歩。
 主人は千代の富士のファンだったので、引率先でさぞ残念がっていることであろう。ニュースでは、八角理事長のインタビューが涙ものであった。ご冥福をお祈りいたします。
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